女流棋士・上田初美さんロングインタビュー。「育児しながら戦い続けるために」
12歳の若さで、将棋の女流棋士としてプロデビュー。23歳で女王のタイトルを獲得、25歳で棋士の及川拓馬さん(現六段)と結婚。2人の娘さんを育てながら、厳しい勝負の世界で戦う上田初美さん。文筆業でも活躍中で、昨年の「観る将アワード」ではベストエッセイスト賞を受賞。妊娠中に夫の家事・育児を鍛え上げたエピソードや、限られた時間の中での将棋との向き合い方など、たっぷりとお聞きしました。
母は「自分で選ばせる」
人だった
7歳のとき、自分でプロへの道を歩むと決めた上田さん。10代の頃は、たびたび徹夜で指すほど将棋に没頭した。
――どんなご両親でしたか?
父が単身赴任で家にいない期間もあったので、基本的には専業主婦の母と兄と3人で生活していました。父は将棋を観るのが好きで、初段あるかないかぐらいだと思います。母は駒の動かし方すら知らないですね。3つ上に兄がいて、先に将棋を始めていました。5歳の頃、兄とともにやってみようと思ったのが、将棋を始めたきっかけです。
――ご両親の教育方針で、印象に残っていることは?
母は、私に「自分で選ばせる」人でした。小平市に住んでいて、お隣の小金井市にある学芸大附属の小学校を受験したのですが、まず抽選があって、その抽選に受かったんです。それで母から「お兄ちゃんとは違う学校なんだけど、はっちゃんはこの学校に行ってみたい?」って聞かれて。私は「行きたい」と答えて、受験をして合格し、通うことになりました。
小学2年生の頃、女流棋士になるかならないかというときも、母が将棋会館道場についてきて、おそらく(女流棋士の養成機関・女流育成会の)幹事の所司和晴七段だったと思うのですが、母に「娘さんは女流棋士になってみる気はありますか? 女流育成会や、女流棋士という職業があるので、よかったら検討してみてください」と話してくださったんですね。「こういう話を棋士の方にされたんだけど、どうしたい?」と母に聞かれて、私は「女流棋士になってみたい」と答えて、育成会に入ることになりました。だから私の中では、自分の道は「自分が選んできた」と、心の中で納得する部分を持って進むことができましたね。
――夫の及川先生と初めて会ったのは?
小学校3〜4年生ぐらいです。師匠が同じで、師匠の教室に通っている歳の近い男の子が夫だったんですよ。その頃はしゃべったことがなくて、でも存在は知っていて。よく席を立つ子で、当時、あまりにも多いから何回席を立ったかこっそりカウントしていた棋譜ノートが残っています(笑)。
その後、高校生の頃に、鈴木肇さん(プロ棋士養成機関・奨励会の元三段)から将棋を誘われたときに夫もいて、仲良くなりました。3人で徹夜で将棋を指していました。10秒将棋だと1日に10局以上は指せますから、夫とは最初の1年で1500から2000局ぐらい、たくさん指してましたね。
夫を鍛えて
家事・育児の戦友に
及川さんと交際が始まってから、上田さんは女流最多対局賞を受賞。その2年後に女流棋界の最高峰・女王のタイトルを獲得。厳しい勝負の世界を順調に歩みながら25歳で結婚。その後、27歳で長女を出産し、育児に追われながらプロとして戦い続けることになる。
――夫の及川先生は家事・育児を上田先生と同じぐらい担当されているそうですね。どうすれば夫が家事と育児に取り組んでくれるのでしょうか?
夫は私と暮らすまで一人暮らしをしたことがなかったので、洗濯機の回し方からなんですよね。洗濯機を回せない人間が存在するんですよ、当時は驚きました。でも妊娠したときに私が「妊娠したら家事はやらん」と宣言して。「この期間で(夫も)すべてのことができるようにならないとこの先やっていけないから、すべてやってくれ」と。料理は私の方が早いし美味しく作れるので、自分がやった方が効率がいい。ただ、つわりの時期は私はほとんど作らなかったと思います。買ってくるか、あっちが作るか……まぁ大体はうどんが出てくる(笑)。でも、積み重ねれば人間は成長しますから。ただ、うちは家にいるからできることであって、会社に勤めている方は大変だと思います。
――妊娠期間中に鍛えたと。
そうですね。私はけっこう文句を言うタイプなので、何か違ったりすると、本当に毎回言いますからね。「濡れてんだけど」みたいな(笑)。でも夫は「あーわかったわかった」みたいな感じで3割ぐらいしか聞いていない。「何回も言われるのが嫌だったら覚えてね」とまた言いますけど。言わないと伝わらないと思っているんで、小言は多いです。
――多くの夫婦は途中で諦めると思いますが、根気強く伝えるんですね。家事と育児、分担を決められていますか?
決めてないです。対局数が月によって違うので、いつどっちが家にいるかわからないんですよね。それに、決めると堅苦しくなるし、不満も出ますしね。たくさんやってもらって「ちょっと悪いな」と思ったら、ご機嫌取りのマッサージをするとか、何かを補填するようなバランスでやっています。
――及川先生は本当に一通りできるんですね。
私がいなくても、マンパワーが減るつらさはあったとしても、もう生活は回りますね。お弁当も作れますし、できないことは、本当に何もないです。
――おふたりとも「自分のことを自分で褒めていくスタイル」だそうですね。
人を褒めるっていうのが、日常だとやっぱり疎かになりがちですよね。疲れてくると大人でも機嫌が悪くなったり良くなったりするじゃないですか。ただ、子どもがいる状態だと、その波は大きくない方がいいかなと。
自分のことを自分で褒めるのは、気持ちをコントロールするための手段のひとつですね。アンガーマネジメントは怒りを自分自身でコントロールするものですけど、ポジティブなものも、自分でコントロールできるほうがいいですよね。相手に期待すると大変なんで、自分のことは自分でする。夫もよく「俺、偉いな」と言ってます。「今日はコレとコレとコレとコレとコレをやって、偉いよね」みたいな感じ(笑)。
――及川先生は娘さんとどんな遊びをしていますか?
公園とかに連れ出すことが多いですね。私がちょっとリフレッシュしたくて、家で何かするから外に出てほしいと頼んだときは、すごく遠いところを目的地にしてひたすら歩いて帰ってくるときもあります。家だとすごろくとかパズルを一緒にやったり。夫が一番やりたくないのは「○○ごっこ」ですね。お店屋さんごっことかプリキュアごっこだと、「あー、パパはやらないから」って断る。私も苦手なので「やりたいなら外でお友達とやったら?」って。だからプリキュアごっこしてくれるお父さんとかお母さんには、すぐ懐きますね(笑)。
――谷川(浩司)九段と羽生(善治)九段のお父様は、どちらもわが子を叱ったことがなく、家の空気が柔らかくて丸かったそうですが、及川先生は娘さんに怒ったりしますか?
朝からブチ切れてます(笑)。やっぱり育児は思い通りにいかないことが多いですから。ストレスが溜まってくると、それは怒りますよね。人間ですから。「お茶〜」って言われてお茶を用意して、それをバーってこぼして「お茶こぼれちゃったよー」って言われて。
――うちの息子が、及川先生が講師をされていた将棋教室の体験に参加した際、私も一緒について行ったことがありまして。及川先生に、「どうやって子どもに教えればいいですか?」と聞くと、菩薩様のような表情で「お父さん、負けてあげてください」とアドバイスいただいたのですが……。
講師としては、そう言いますよね。実際娘に将棋を教えるときは、めっちゃキレてます(笑)。やっぱり身内に関しては違いますよ。「身内に将棋を教えちゃいけない」と将棋界では言われているんですけど、やっぱりやらない方がいいと思います。「“一間竜”ってこないだ教えたよね」とか「“頭金”ってもう言ったじゃん。これ3回目なんだけど」って、そんなに怒るんだったら教えない方がいいんじゃないのって(笑)。
日をまたいで夫婦喧嘩を
したことがない
及川さんと上田さんは、結婚前に喧嘩したことがなかった。出産後は喧嘩するようになったものの、日をまたいでの夫婦喧嘩はないと言う。
――出産後、少し喧嘩されるようになったそうですが、どんな理由が多いですか?
まぁやっぱり疲れですね。今まで許せていた、見逃せていたことがスルーできなくなったっていう、余裕のなさから来るイザコザですね。だから大したことではないんですけど、うるさいとか、起きてこないとか、「なんで俺ばっかり」とか、そういうやつです。
――ある女流棋士の方は「将棋に負けたら毎回、本気で死にたくなる」と発言しています。上田先生は負けたとき、家族に会う前に切り替えできますか?
私は勝っても負けてもあんまり変わらないので、珍しいタイプだと思います。負けても「まぁしょうがないか」みたいな感じで引きずらないですね。将棋に関しては自分の責任だと思っていますし、娘に当たってもしょうがないですから。夫には軽い嫌がらせをしますけど。
――どんな嫌がらせを?
机に夫の指導対局の報酬の封筒が置いてあったりすると、1枚抜いて私の懐に入れて「気付くかな?」みたいなことはやります(笑)。向こうもすぐ気づきますけどね。
――軽い嫌がらせが仲良しの秘訣でしょうか?
今年の2月に「昨日は夫にブチ切れ案件があった」とツイートしたんですが、その日、私が大阪へ対局に行ったんです。何年ぶりかで大阪へ行って、負けて帰ってくる。女流棋士は(対局の)持ち時間が短いので、当日に帰るんです。夫に「今から帰ります」ってLINEしたら、「今日は○○さんと食事に行くことになりました」って。
いつも子どもを連れて、私も含めたメンバーで一緒に食べに行く人たちと、娘を連れて食べに行ってきますと。「なんで今日なの? 明日なら私も行けるじゃん!」って、こっちは負けてるから猛烈に苛立つわけですよ。東京に着いた後、ひとりお腹を空かせてお店を探しても、今はコロナで閉店してますし……。先に帰ってきて、とりあえず機嫌を取り戻さねばならぬと思い、当然、夫に嫌がらせをしました。ちょうど次女の替え用のオムツが一個置いてあって、そこに夫の眼鏡のツルを両足の代わりに挿して(笑)。負の感情をどう処理するかというときに、私の中で一番穏便なのがこういう形でした。
――イライラが爆発する前に、浅い傷ですませるようにするんですね。
うちの夫婦は日をまたいでの喧嘩をしたことがないです。その前に解決。甘いものを買ってきたり、ご機嫌取りで肩を揉んだりとか。怒っている側が歩み寄りのキッカケとして、軽い嫌がらせをするみたいな。そういうのはありますね。
――日をまたいでの喧嘩はしないというルールがあるんですか?
ないですけど、お互いに嫌だと思っているんでしょうね。ピリピリしているのに、子どもに対してはニコニコするっていう、そこで切り替えるんだったら最初に切り替えた方がいいですよね。怒りを持続させるってけっこうパワーを使いますし、そこまで怒っているわけじゃないですし。ただこう……苛立っている(笑)。
基本的に、怒っている方が黙っていると、謝りにくいじゃないですか。だから怒っている方が何かした方が、場がほぐれやすいですよね。相手も悪いと思っているから、そのイタズラに対して怒り返してくるっていうことはないんです。軽いイタズラなので、キッカケですよね。まぁでも、やらないと気持ちの落ち着けどころがないので、「自分が嫌がらせをしてやった」という達成感を得るための工作です(笑)。