【ロングインタビュー】作家・早見和真さん。自分の強みだったはずの野球。挫折はつらかったけれど、作家になる道ができたんです
高校野球、競馬、中学受験、冤罪など、さまざまなテーマを描いてきた作家の早見和真さん。純文学からミステリーまで作風は幅広く、人間の機微を丁寧にすくい上げています。鮮やかな物語を生み出す感性は、どのようにかたちづくられてきたのでしょうか。kodomoe10月号では、高校生の子どもを持つ父親として考える家族のあり方についても伺いました。
kodomoe webでは、本誌の貴重なインタビュー冒頭をご紹介します。

満たされているはずの自分を
どうしても認められなかった
高校球児だった自身の経験から生まれたデビュー作『ひゃくはち』(集英社)をはじめ、『笑うマトリョーシカ』(文藝春秋)、『ザ・ロイヤルファミリー』(新潮社)など、発表作品が数多く映像化され、注目を集めている早見和真さん。親子関係や家族のありようも、作品の中で繰り返し描いてきたテーマのひとつです。それらの物語を生み出すまなざしは、どのように育まれたのでしょうか。
――早見さんから見て、ご両親はどんな人でしたか?
お坊ちゃん育ちの親父とお嬢さま育ちのお袋で、僕はひとりっ子。父は音楽関連の会社で営業の仕事をしていて、男前で人当たりのいい人でした。だけど、たくさん稼いでくるタイプの人じゃなかったんですよね。そのことでお袋が辛そうにしているところを、子どもの頃から見ていたんです。外から見れば幸せな家族だったんだろうけど、実際はそんなに単純じゃないんだけどなあって、モヤモヤしたまま育ちました。
ただ、それとは別に「自分は両親に愛されて育っている」と、子どもの頃から言語化できるくらい両親が大切にしてくれていることは実感できていたんです。それでもどこか安心感を得られなかったんですよね。
――お父さまは絶対に愛してくれている存在である一方、お母さまに辛い思いをさせている。幼いながらにその両方を感じ取っていたのですね。
親父が世間的にはどんなに評判が良くても、一番近い存在である母親にしんどい思いをさせている。そのことで、どこか親父を手放しで肯定できなかったんだと思います。
――早見さんご自身は、どんなお子さんでしたか?
友達がたくさんいるタイプで、周りには常に人がいて。自分で言うのも変なんですけど、いわゆる人気者ではあったと思います。でも、それを心地よいとか、うれしいとか、素直に思えなくて。
――それはどうしてですか?
子どもで本当にそんなことを考えていたのかと思われるかもしれないんですけど、僕自身が、僕という人間を認めることができなかったんです。
――自分のことを、一歩引いたところから見ていたのですね。
カッコつけたかっただけなのかもしれないんですが、ダサいことはしたくないっていう思いも強かったんです。それをチェックするために、もうひとりの自分が自分を見ているような感覚はありました。
だから、ないものねだりかもしれないんですが、そばにいてくれる人たちよりも、僕を取り囲む輪の外から冷静な目で見てくる人たちのほうが気になるんです。むしろ、輪の外にいる人たちのほうが僕のことを正しく見ているんじゃないかと思っていて。
――自分で自分を認めていないからこそ、遠くから見てくる人のほうが信用できるということでしょうか。
そうそう。「彼らのほうが自分と価値観が似ているんじゃないか?」って。
本当ならもっと満たされていてもよさそうなのに、なぜか満たされない。その感覚は、子どもの頃から今もずっとあるんです。だから僕の作品も、良いと言っていただけるのは本当にうれしいのですが、もしかしたら批判的に読んでくる人のほうが、僕や作品のことを正しく見ているのかもしれないって思ってしまうんです。なんか、ひねくれていますよね。

本気で甲子園をめざして
野球に打ち込んだ中高時代
――野球を始めたのは何歳からですか?
物心がついたときにはやっていました。当時入っていた少年野球チームの監督の息子が同級生だったこともあって、なんとなく流れで始めたんです。ピッチャーをやっていたんですが、同い年の子よりも一回りくらい体が大きかったこともあって、まず打たれることがなかった。横浜市や神奈川県の大会では優勝常連チームだったし、「自分は絶対に甲子園に行ける、そして将来はプロ野球選手になれる!」って思っていたんです。
当時、神奈川県で甲子園常連校といえば桐蔭(とういん)学園高校だったのですが、付属の中学校から野球推薦のお話をいただいて、桐蔭学園に入学したんです。そこからは野球漬けの毎日でした。
――野球の名門校ですね。
当時の桐蔭学園の野球部は、僕の前後の世代にプロに進む選手が何人も出るような環境だったんです。自分より技術が上の先輩たちを見ても「数年後には自分もこうなっているはずだ」って、信じて疑わなかったんですよね。
ところが中2に進級する年に、高校の野球部に高橋由伸さん(読売ジャイアンツ元監督)が入部したんです。入部前から「すごい選手が入ってくる」という噂はあったんですが、はじめて由伸さんのバッティング練習を見て「自分はプロ野球選手にはなれない」って、現実を突きつけられて。それくらいずば抜けていて。
一緒に練習を見ていた仲間は「すごい、すごい!」って、大はしゃぎしてたんですが、僕はとてもじゃないけどそんな気分になれなくて。今でも付き合いのある当時の仲間に言われたことがあるんです、「あのとき、本当につらそうに由伸さんの姿を見てた」と。
――それほど決定的な出来事だったのですね。
本物だと信じていた自分の野球が、実は偽物なんだと突きつけられた瞬間でしたね。だから今、小説家としてどれだけ評価されても、あの頃ほど自分を信じることができないんですよ。野球で一度、自分の中の「本物」がひっくり返ってしまったから。
――中学生でまだ伸び盛りの時期なのに、判断が早かったのでは?
超えられるように頑張ろうって思えばよかったという悔いもあるんです。「たかがか中2で勝手に自分を見限って諦めるなんて」という、自分へのムカつきから生まれたのが、野球部の男子とその母親を描いた『アルプス席の母』(小学館)という作品です。僕が小説を書いてる理由の半分は由伸さんとの出会いだったので、由伸さんは僕の人生のキーパーソンでもあるんです。
――その後も野球へのモチベーションは維持できたのでしょうか。
ちょうど同じ頃に伸び悩んでしまって、イップスでボールを投げられない状態になって。自分の野球人生はひと区切りついて、あとは余生なんだって思っていました。とはいえ、野球推薦で入学していたので、簡単には辞められない立場でもあったんです。
高校に入ってからはチームの賑やかし役でした。でも、自分の野球人生が高校の3年間で本当に終わるんだと思うと、逆に開き直った感じもあって。レギュラーに入れなくても、このチームで甲子園に行きたいという気持ちは変わらなかったんです。高校生で遊びたい盛りだったから隙を見つけて息抜きすることはあったけど、練習は絶対にさぼらなかったし、真剣に取り組んでいましたね。自分は補欠だったんですが、高2、高3と、2年連続で甲子園に行くことができました。
――大学でも野球を続けようとは思わなかったのでしょうか。
野球推薦のお話はいただいたんですが、プロになれないのであれば、大学の4年間を野球に費やすのは無駄にしかならないと思ってしまったんです。一浪して大学に入ったんですが、野球をやっていたらできなかったことをやらないと、本当に人生に悔いが残るって思っていました。
――野球をやめて、まずは何を始めたのでしょう。
ひとつは読書です。僕は中学、高校の6年間で、本を2冊しか読んでなかったんですよ、これがいまだにコンプレックスなんですけど。最初は1日1冊読むと決めて、次第に1日に3冊くらいは読んでいました。ほかには映画も、芝居もたくさん観に行ったし、海外旅行にも行きました。行ってなかったのは大学だけと言っても過言ではないくらい(笑)。
――海外へ行こうと思ったのは、きっかけがあったのでしょうか。
沢木耕太郎さんの『深夜特急』(新潮社)に影響を受けたんです。最初に行ったのはインドでした。何の前情報もないまま行ったんです。街中を当たり前のように牛が歩いていたり、河にいろんなものが流れていたり。見るものすべてが「何これ!?」という感じで、すごく楽しかったんです。大学に7年間在籍して、結局は中退したんですけど、大学時代の大半は世界中を旅していました。
挫折したからこそ
次なる目標が見つかった
――大学生の頃からライターの仕事をしていたそうですね。
仕送りはもらわず、親には学費だけを出してもらっていたんですが、バブル崩壊の影響で親父の仕事が頓挫してしまって「もう出せない」と言われて。それで、海外での経験を文章にしてお金にできないかって考えたんです。自分に何が書けるのかもわからなかったんですが、知人を通じて雑誌編集部とつながることができて。20歳で「AERA」(朝日新聞出版)で書かせてもらって、そこからライターの仕事が広がっていきました。
――文章を書くことにも興味があったのですね。
原体験は高校時代にあるんです。うちの野球部には新聞記者やスポーツ誌のライターがしょっちゅう取材に来ていたんですね。だいたいチームのエースや4番バッターが取材されていたんですが、みんな弁が立つタイプではなくて。ずっと「俺のところに来てくれたら、知りたいことを何でも話してあげるのになあ」って思っていたんです。でも、当たり前なんですが、補欠の自分のところに大人たちは来ない。そのときに、生意気なんですが「自分が書く側になったら、もっといいものが書けるはずだ」って思ったんですよね。それが文章を書くことを意識した最初のきっかけでした。
野球では挫折したけど「文章を書いてみたい」と思うようになってから、肩の力が抜けるような感じがあって。それがあったから大学で野球をやらないという選択ができたし、読書にも結び付いていったんだと思います。
――小説家へのあこがれは?
全然。就職活動では新聞記者になることをめざしていたんです。小説とノンフィクション作品、同じくらいの量を読んでいましたが、自分が小説家になることにはリアリティを持てなくて。そもそも、どうすれば小説家になれるのか、小説家がどうやって飯を食っているのかもわからなかった。僕にとってリアリティのある「文章を書いて生きていく仕事」というのは、新聞記者だったんです。
大学に7年在籍して就職活動をしたんですが、何度も留年を繰り返していたし、当時は不況のど真ん中。本当に自分が新聞社に入れるんだろうかと思いましたが、同世代の誰よりも猛烈に人生経験を積んでいるという自負だけはあって。それを面白がってもらえたのか、無事に内定をもらうことができました。
「これで人生安泰!」って思っていたんですが、大学の単位が足りなくて留年が確定して。結局、内定は見送ることになって、それからしばらく引きこもっていました。
――その頃、のちのデビュー作となる『ひゃくはち』を書き始めたそうですね。
お世話になっていた編集者が見かねて僕を呼び出してくれたんです。そのときに高校時代の自分の体験を話したら、小説にすることを勧めてくれました。
結婚、小説家デビュー、そして娘さんの誕生などお話はまだまだ続きます。早見和真さんロングインタビューは、kodomoe10月号でお楽しみください!
早見和真
はやみかずまさ/1977年神奈川県生まれ。2008年『ひゃくはち』(集英社)で作家デビュー。2015年『イノセント・デイズ』(新潮社)で日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)、『ザ・ロイヤルファミリー』(新潮社)でJRA賞馬事文化賞、山本周五郎賞を受賞。2026年9月、『春までのセンセイ』(双葉社)を刊行予定。
INFORMATION

『問題。以下の文章を読んで、
家族の幸せの形を答えなさい』
早見和真/著 朝日新聞出版 1760円
小学6年生の十和(とわ)は、家族の幸せの形がわからない。一見あたたかい家族に囲まれながら、心は荒み、苛立つ日々を送る。中学受験が近づく中、十和の決意に家族の形が揺らぎ始める。
インタビュー/菅原淳子 撮影/大森忠明(kodomoe2026年10月号掲載)







































