2021年8月1日

将棋棋士・杉本昌隆さんロングインタビュー。「藤井聡太二冠に続く若い棋士を育てるのが私の使命」

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次々と記録を塗り替え続ける天才棋士・藤井聡太二冠の師匠・杉本昌隆八段。厳しい勝負の世界に生きながら、後進の育成にも力を注ぎ、その穏和な人柄で一躍人気者に。今回は、2児の母であり文筆業でも活躍中の上田初美女流四段に、聞き手をお願いしました。※称号・段位は、2021年7月31日時点のものです。

Profile

すぎもとまさたか/1968年、愛知県名古屋市生まれ。80年に故・板谷進九段門下となり、90年プロ棋士に。2019年に史上4位の年長記録となる50歳で順位戦B級2組昇級を果たす。地元で杉本昌隆将棋研究室を主宰。著書『弟子・藤井聡太の学び方』(PHP研究所)で、第30回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)の大賞を受賞。本格派振り飛車党。現八段。2021年6月、日本将棋連盟の非常勤理事に就任。

ウルトラマンの怪獣たちと
将棋の駒

日本一有名な「師匠」と言っても過言ではない、杉本昌隆八段。将棋界のみならず多くの注目を集めている、藤井聡太二冠の師匠だ。杉本八段が幼少時代、数あるボードゲームの中で将棋にハマったのは、ある意外なつながりからだった。

——杉本八段はどのようなお子さんだったのでしょうか。

一言で言うと運動音痴で、家で本を読んだりするのが好きな少年でした。ウルトラマンに出てくる怪獣が好きで、一番はバルタン星人だったかなぁ。怪獣の名前とそれぞれの得意技を暗記していました。子どもの頃ってそういうのが好きな子が多いですけど、長く記憶に残っているものですね。だから幼少期にいろいろといい経験をさせてあげると、ずっと覚えていると思いますよ。

——杉本八段から見たご両親は、どのような方でしたか。

やりたいことをやらせてくれる両親でした。うちにソフトビニールの怪獣の人形がたくさんあるんですよ。3桁あったかもしれない。今も50体ぐらい残っています。結構買ってくれていた覚えがあって……まぁ優しい両親でした。やりたいこと、挑戦したいことは積極的に後押ししてくれた記憶があります。将棋を覚えてからは、あちこちの将棋大会に連れて行ってもらいました。

——小学2年生の頃に将棋を始められたきっかけは。

初めは父に教わったんですが、トランプとか五目並べとかオセロとか、いくつかのボードゲームを教わって、そのひとつが将棋でした。将棋は駒の動きにそれぞれ特徴がありますよね。駒の種類が8種類もあって、駒の能力や動き方が全部違う。子どもの頃のウルトラマンの影響で、違う動きをするものがたくさんある、というのが楽しかったんでしょうね。

——ここでウルトラマンがつながってくるんですね!

ええ、具体的には「桂馬(けいま)」が好きで。ぴょんと跳び越える、立体的に動くところが、子ども心にすごく魅力を感じて。それで将棋を好きになったんです。ただ、今は桂馬が大好きかと言われるとそうでもないですね。将棋は全体的に駒を使った方がいいので、「あまり好き嫌いで考えない方がいい」と、少し言葉は違うけど、以前よく藤井二冠が言ってましたよ(笑)。

いつか必ず勝てるようになる
細かいことは気にするな

——将棋の棋士になりたいと思うきっかけは何だったんでしょう。

父と一緒に将棋大会に行ったことがあって、そこで審判をされていたのが私の師匠の板谷進九段でした。家に帰ってから父が「あの人が将棋の棋士の先生だよ」と教えてくれました。そこで初めてプロという存在を知り、「じゃあ自分も将来、将棋を仕事にしたいな」と思ったのがきっかけです。4年か5年生の頃には、大村和久八段という、板谷一門の大先輩の教室に通い始めました。

確か4年生ぐらいまでは、別の子ども教室に通っていたんです。午前が小学生の部、午後が中高生の部で、私はその年齢にしては割と強かったから、途中から午後の部に参加していました。運営されている方が「この子はすごい天才少年だ!」みたいな感じで見込んでくれて、強い中高生が集まる部に参加させた。いわゆる英才教育ですね。でも、これが私には合わなくて。将棋を「すごい難しいものだ」と思ってしまって、楽しさがなくなっちゃったんです。将棋はずっとやっていたんですけど、一瞬気持ちが離れかかったときがありました。その頃に大村八段の教室に変わりました。

——大村八段は、その「一瞬、気持ちが離れた瞬間」に気づいて、転機を与えてくれたんでしょうか。

はっきり気づかれましたね。第一声で「この子は将棋が好きじゃないね」と私の親に言ったんです。当時1級ぐらいだったと思うんですけど、6枚落ち(※1)でやらされて。だから本当に基礎からやり直し、みたいな感じでした。

——6枚落ちとはまた…。1級だと普通は飛車・角落ちの2枚落ち位の手合(ハンデ)ですもんね。

流石になんかちょっとムッとしたっていうか、子ども心に「こんなの楽勝だろう」と思ったのを覚えています。ただ、勝つのにすごく苦労したんですよ。将棋って奥深いものだとも思いました。大村八段は優しく、同世代の仲間がいたのも居心地がよかった。大村八段に出会っていなかったら、将棋を辞めていた可能性もあったかもしれません。

——その後、6年生で板谷九段のお弟子さんになられたんですね。

そうです、師匠は一見怖そうなんですけど(笑)、すごく弟子思いで。豪快、かつ気配りもされる先生です。弟子それぞれにかける言葉は変えておられましたが、私が思い悩むタイプだったので、「細かいことは気にするな」と何かの折によく言われました。

棋士の養成機関である奨励会に6級で入会して、5級になるのに2年7か月かかりました。6年生で入って中学3年生までひとつも上がれていない。当然、悩んだり苦しんだりするんですが、そういうときに「いつか必ず勝てるようになるから。細かいことは気にするな」と。自信を失っているときは、何をやっても上手くいかないような気がするし、子どもの頃は特に気持ちの切り替えが下手な場合が多いですよね。それが人生のすべてのように思ってしまうから。そういうときに、私にとっては、「気にするな」というのは一番腑に落ちた言葉でした。

——弟子に寄り添ってくれる師匠だったんですね。そして杉本八段が奨励会三段のとき、板谷九段は47歳の若さで亡くなられてしまいます。

……そうですね、将棋の世界では「棋士になった姿を見せるのが師匠に対する恩返し」という言葉もよく言われます。師匠が亡くなったとき、私は19歳でした。そのときはまだ三段(※2)で。プロになる自信はあったんですけども、その途中で師匠が亡くなってしまって。心の張りがなくなったというか……。自分がずっと信じていたもの、信頼していた身近な人が急にいなくなるということを受け入れられなかったときがありました。

師匠が亡くなってしまって、ちょっと目標を失いかかったのも事実です。それまでは自分のために「プロになりたい」と思っていたんですけど、何としても「プロになって師匠のお墓に報告しなければいけない」という思いが湧いてきました。ファンのために、応援してくれる人のためにと考えるようになったのも、その頃からです。

(※1)6枚落ち……対局時に棋力に応じて設けるハンデで、上位者側の飛車・角・桂・香の計6枚の駒を取り除いた状態で対局する。
(※2)三段……奨励会三段。三段リーグを勝ち抜き四段に昇段すると、晴れてプロ棋士となる。

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