2020年9月11日

奥山佳恵さんロングインタビュー。子どもたちの今日一日の笑顔をどれだけ私たちが作ってあげられるか【前編】

たったひとりの子育て
遠い星に来たようだった

はつらつとした笑顔をスクリーンやテレビでふりまいていた奥山さんが稲葉さんと出会い、結婚したのは2001年、26歳のときだった。

――奥山さんの事務所はサザンオールスターズや福山雅治さんを擁するアミューズですが、人気者の結婚への反対はなかったのですか。

はじめはありましたよ。原由子さんがいらしたけれど、若手でアミューズに所属しながら結婚、出産したのは私がトップバッターです。そしたら、そのあと続々と結婚や出産する人が続いた。でも、そもそも、主人を私に紹介してくれたのは仕事を彼に依頼した女性マネージャー。「稲葉さんと結婚したい」と言ったとき、「彼に『奥山をよろしくね』とは言ったけど、そこまでのよろしくじゃない」って言われた(笑)。主人とは会ったその日に人生相談するくらい気が合ったんです。前世があるとしたら双子だったんじゃないかと思うぐらい。交際から約1年後に結婚しました。

――魂の片割れと出会ったということでしょうか。会社も涙を飲んで許してくれた(笑)。

ありがたかったです。すぐに最初の子を妊娠したときも、この子が無事に生まれるようにと、みんなにずいぶん励ましてもらいました。

――結婚生活は順調に滑り出したわけですが、長男は病院でお産みになった?

病院で出産したんですが、“産むがやすし”で案じていたほど大変ではなく、5時間で生まれてきたんです。でも、私は出産というゴールが達成できて、そこからが育児だってことを全然念頭に置いてなかった。まぁ、家が中国料理店をやっていて、両親が共働きだったという事情があり、子育てというものがよくイメージできてなかったということもあったんですが。

――お商売されていたら、お母さんはさぞお忙しかったでしょう。

私は4人きょうだいのいちばん上ですけれど、私たちは母方の祖母に育てられました。食卓の上には常にきんぴらごぼうがあるような家庭でした。母の手料理は、今まで、10回程度しか食べたことがないんです。母は常に家にいなかったから、母の提案で交換日記したりして、時間の制約がある中で濃い愛情を与えてくれようとしていたのは伝わっていたので、寂しかったのは寂しかったんですが、おかげで母に愛されなかったという思いはなかったですね。

奥山佳恵さんロングインタビュー。子どもたちの今日一日の笑顔をどれだけ私たちが作ってあげられるか【前編】の画像1

――奥山さんご自身は、子どもさんは自分の手で育てたいと思われていたんですか。

その思いも特になかったです。ただ大好きな主人との子どもが生まれたら楽しいな、幸せなんだろうなと自然の流れで思えていたんですが、その「子育てとは」という想像力がまったくなかったんです。

――仕事は?

すぐに復帰したいとは思っていました。ただ、まずは子どもを産んでから考えようと思っていたんです。ただ、生まれてみたら、「あっ、これは大変だぞ」ということにやっと気がついた。世間からすごく遠い星、「子育て星」に来てしまったような気がしたんです。窓の向こうに通行人が見えるんですけど、私の声が届かないぐらい世界が遠のいた気がしたんです。なんですかね、あの感覚って。

――社会からはじき出された、そんな感覚ですね。

なんか、急に壁ができているように感じたんです。今思えば、とっとと着替えて外に出たらよかった。ただ、私は子どもを連れて外に出ることの方がおっくうで、なかなか外に出なかった。

――それが好転するきっかけが、湘南への引っ越しだった。

はい、同時期に仕事に復帰したので、長男は保育園に入れたんですね。そうすると、お迎えの時間が同じくらいのお母さんたちと友達になれた。(閉園時間の)19時ギリギリ組だったんです。大体顔ぶれが同じなんで、「じゃ、このままの流れでごはん食べに行こうか」という友達がどんどん増えてきたら、仕事が遅くなって迎えに行けないときに、「預かってあげるよ」というフォローもしてもらえたりとか。そういう関係性が出てくると、私の笑顔も、余裕もどんどん広がっていった。たったひとりで子育てをしようと頑張ろうとしてた私はなんて愚かなんだ、と思いました。

自宅出産で次男誕生
ふたりの息子を抱く幸せ 

稲葉家に新しい家族が増えたのは2011年、青葉繁れる頃。みんなに歓迎された新しい命は、障がいを持っていた。

――第2子まで9年と時間がたったのは?

空良は、保育園でもすごく楽しそうに下の子の面倒をみる子だったんです。そういう姿を見て「お兄ちゃんにしてあげたいね」と言うと、主人は、私が子育て下手だった時期を思い出して、「またあんな風になるんでしょ、嫌だ嫌だ」と言う。彼を説得するのに9年かかったんです。

――稲葉さんは本当にこりごりだったんですね(笑)。

はい(笑)。「仲間がこれだけいるから大丈夫です。みんながきっと手伝ってくれるし、私も楽しめます、次は」と説得して、空良が小学4年生のときに美良生くんがやってきました。

――自宅出産なさっていますよね。

私は36、7歳だったので、もうこれで最後かもしれない、経験したことのないことをしてみようと。自宅で産んでる友達に「とてもよかった。ずっとそのまま一緒にいられるよ」って聞いたので、生まれた子どもとずっと一緒にいられるっていうのは、楽しむ子育ての入口にはぴったりだと思ったんです。で、自宅を選んだんですが、想定よりも早く生まれまして。

――早産だったんですか。

いや、39週目なので早産ではないのですが、明け方4時に産気づいてから生まれるまで1時間20分だったんです。あわやセルフになっちゃうところでした(笑)。

――稲葉さんも空良くんもそばにいたんですよね。

そうですよー。空良は「絶対に起こしてほしい。頭が出たーって実況中継がしたい」とずっと練習してたんですが、いざ本番になったら怖くて3歩後ろにしりぞいてすごくおとなしく見ていました。どん引きでした(笑)。

――よかったですか、自宅出産は。

私自身は、幸せでしたねぇ。朝6時に生まれたんですが、へその緒を長男が切ってくれたんです。生まれたてのほかほかの赤ちゃんと空良を両腕に抱えて、昼過ぎまでそのまま3人で寝たんですね。主人が横で仕事をしていて。もう、至福のときでした。

――生まれたお子さんの障がいが分かったのは?

徐々に分かったんですよ。毎日来てくださっていた助産師さんは分かってたかもしれないけど、私たちは誰も分からなかった。最初は、黄疸の数値が高かったんです。でも、長男のときも黄疸は出たし、日本人の大体6割が黄疸という、高い傾向にあるので、「あぁ、またこの子もか」という認識でしかなかった。ただ一緒にいられるから自宅で産んだのに、黄疸の数値が高かったために生後2日目から彼だけが入院しなきゃいけなくなったのが悲しくて。「だったら病院で産んだのに」って思いました。本当は動いてはいけないんですけど、生後2日から立ち上がってお乳をあげに病院に通いました。

――それは寂しかったですね。

思ったよりも体重が増えなくてなかなか帰してもらえない。哺乳力が弱くて、飲み始めてもすぐに疲れて寝ちゃうんです。どうもパワーがないというんで精密検査を受けたんです。そしたら心臓に3つも穴が開いている「心室中核欠損症」だと分かって、先生が「高い確率で遺伝子の異常がある場合が多いので、もっと大きい病院の遺伝科で調べましょう」と。そこで初めて「遺伝科? なんだろう?」って。

――不安になった?

「この子の命はどうなるんだろうか」とそればかりが気がかりでした。生後1か月ぐらいで、遺伝科で染色体の検査をしたんですが、「ダウン症の疑いがあります」って。ただ、その日は「目視の検査では分からない」と言われたので、私は「違う」と思ってたんです。自分は心も体も健康なので、私から障がいのある子が生まれることは想像もしてなかったし、家に帰ってネットで検索して、その特徴を読んでも「当てはまらない」と思い込むんです。でも、別の日は「そうかもしれない」と不安になる。また別の日には「違うと思う」。検査結果が出るまでそのくり返しで、8割方違うだろうという思いで検査結果を聞きに行ったら「ダウン症です」と言われました。そのあと先生が何を言っているのか、もう全然頭に入ってこなかった。(後編へ続く)

 

INFORMATION

奥山佳恵さんロングインタビュー。子どもたちの今日一日の笑顔をどれだけ私たちが作ってあげられるか【前編】の画像2『生きてるだけで100点満点!』(奥山佳恵/著 ワニブックス 本体1300円+税)
次男美良生(みらい)くん誕生からダウン症候群と告げられた日、葛藤の日々を経てすべてを受け入れるまでをつづった育児日記。奥山さん得意のイラストも満載。

 

kodomoe webでは、奥山さんが全国津々浦々のラーメン屋さんを紹介する「ラーメン天国」を好評連載中。過去の連載「たのしむ子育て(全150回)」では、お子さんと一緒に料理を楽しむようすも。ぜひご覧ください♪

 

インタビュー/島﨑今日子 撮影/黒澤義教 ヘアメイク/稲葉功次郎(KiKi inc.) スタイリング/佐々田加奈子(kodomoe2015年4月号掲載)※本誌の内容から一部変更になっている箇所があります

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