2017年11月6日

うたのお兄さん・横山だいすけスペシャルインタビュー「だいすけ君の歌はつまらないといわれました(笑)」

9年間でますます大きくなった思い

「子どもたちに勇気や希望の歌を届けたい」という思いのもと、ずっと「うたのお兄さん」を目標にしていただいすけお兄さんは、高校卒業後に東京の国立音楽大学に入学。大学を卒業後は劇団四季に所属し、2008年春に念願の「うたのお兄さん」に選ばれる。夢に向かってまっすぐな道のりに思えるが、だいすけお兄さんが受けた「うたのお兄さん」のオーディションは、当初すでに選考が終わっていたのだという。

――「うたのお兄さん」のオーディションは不定期かと思いますが、どのように知ったのですか。

 僕、業界のことを全然知らなかったので、学生の頃から「『お兄さん』になりたいんですけど、どうすればいいんですか」ってNHKのお客様センターに電話してたんです、何回も(笑)。でも2007年のある日、一次オーディションが終わったらしいと後輩から聞いて。それまでずっとNHKに電話してたのに、たまたまその年だけしなかったんですよ。劇団四季に入ってから、目標だった「ライオンキング」の切符を手にして、必死に頑張っていたときだったので。
 で、「オーディションが終わってしまったらしい」と親に話をしたら、母親が「このまま劇団四季でも子どもたちや観客の皆さんに勇気や希望は届けられるだろうし、一方で、『うたのお兄さん』のオーディションを受けて、受かる受からないは別として、あなたの原点、本当の夢だったことに関われるのは、あなたの人生にすごく大事なことだと思う。それは少し考えてみたら」って言われて。で、翌日、やっぱりNHKに電話してみたんです。それがちょうど「お兄さん」だけ追加オーディションをしましょうって会議が終わったタイミングだったらしく、すぐに担当者につないでくれて。そこからは気がついたら「お兄さん」になっていた感じで。
 僕は小さい頃からずっと歌が好きで、鼻歌でも常に歌ってますが、学生のときはコンクールも予選落ちしたり、「うたのお兄さん」になってすぐのときは「つまんない」って怒られるし、厳しい意見の方が多かったんですよ。お姉さんはすごくかわいらしい通る声でしたが、僕は柔らかくてそんなに前に出ない声質なので、それが実はずっとコンプレックスで。低い声も全然出なくて、「低い声出ないんだったら、お姉さんのソロでいきましょう」ってときもあって、「え、『うたのお兄さん』なのに、歌わなくていいってなっちゃった……」と(苦笑)。最初のうちは、自分が好きでなった「お兄さん」なのに、なかなか表現につながらないことで苦労しましたね。

――そこから、どのように気持ちを切り替えていったんですか。

やっぱり、子どもたちの笑顔がそういうものをすべてとっぱらってくれたというか。歌がうまいとか下手じゃなくて、こちらが楽しそうに歌っていると、子どもたちは一緒に歌ってくれるし。「うまく歌わなきゃ」という「しなければならない」から「こうしたい」っていう気持ちになり、それで自分も変わっていきました。
 コンサートでも、舞台の上から結構見えるんですよね。子どもたちが跳んだりはねたりしている様子や、お父さんお母さんと「あ、この曲知ってる」と話したり、一緒に歌ってる姿が。本当に、今この瞬間を皆さんと共有できているんだ、幸せだなあって感じます。

――コンサートも全国規模で大変ですよね。スタジオ収録、コンサート、DVDやCD収録、どんなに忙しくても9年間ずっと、「だいすけお兄さんも、元気!」って。

 そう、そこが何よりも大事で、「うたのお兄さん・お姉さん」には代わりがいない、いつでも歌をちゃんと届けるのが一番大きな使命なので。収録が続けばやはり疲れもするんですけど、子どもたちといるといろんな発見があったり、大事なものを教えられたり、逆にエネルギーをもらえました。歌と子どもが大好きで、子どもたちといることが自分のエネルギーになる、もっと関わりたい。「うたのお兄さん」の9年間その気持ちがあせることなく、逆に大きくなって、本当に自分の人生を賭けてやっていきたいことだと思えました。そういう環境にいられることが幸せで、本当にこれが僕の生きる道なんだろうなって思います。
世代を超えて全国の皆さんに愛してもらいました

――お母様がオーディションへの後押しをしてくれたという話でしたが、お母様はかなり音楽がお好きだったのですか?

 そうですね、家の中は常に音楽があふれていました。ディズニーやクラシック、大きくなるにつれて映画音楽やジャズのラジオ、オープニングの「A列車で行こう」の♪チャーンチャッチャッチャッチャラ~のメロディをよく覚えています。僕は幼稚園のときにエレクトーン、その後ピアノを習い、歌は小学3年生から地域の合唱団に入りました。父は早くから働いて苦労していたので、「自分が好きなことができなかった分、子どもには好きなことをやらせてあげたい、一生懸命頑張れることは、お父さんもお母さんも応援するから」とずっと言ってくれて。だからこそ、歌が好きという気持ちを大切にできたのかなと思います。

――そうですよね、「『うたのお兄さん』になりたい」という夢を「頑張れ!」って応援してくれるご両親、素晴らしいと思います。心配の方が先にたつ親御さんも多いかもしれませんね。

 そう。だからやっぱり「『うたのお兄さん』になりたい」って言ったときは「どれくらい本気なのか」って聞かれましたね。「音楽大学に進みたい」って話をしたときは、サラリーマン家庭には厳しい出費なのですが、「本当に自分が好きでやりたいんだったら、どんなことがあっても、お父さんとお母さんは応援するから」って、学費を工面してくれて。母親も仕事を始めて、弟妹にもいろいろ我慢させてしまいましたね。でも、妹も弟も「兄ちゃん頑張ってね」って応援してくれて、だからこそ自分も頑張らなきゃなって思いました。
 入学後は教材代などは自分で出せるよう、アルバイトもたくさんしました。みんなが遊びに行ってるときに自分はバイトしたり、そういう経験をして、よりその時間を大切にできたというか。
 僕、先生にも恵まれていて、幼稚園から大学の先生まで、ほとんど今もつながっているんです。よく連絡も取りますし、本当に人の縁に恵まれているんだなあって。

――先生方も皆さんうれしかったでしょうね。毎日テレビで、「だいすけ君が元気でやってる」って見られるのは。ご家族も。

 そう、「うたのお兄さん」の合格発表を受けたときは、亡くなる間際だった九州の祖父の家にいて、合格を伝えられたんです。僕が番組に出る前に祖父は亡くなり、その後祖母はずっとひとりで九州にいたんですけど、毎朝番組を見て、僕が「みんな、元気?」って言うと、祖母もテレビに向かって手を振って「元気だよ~、だいすけ、元気だよ~」って。
 自分のおばあちゃんじゃなくても、「おかあさんといっしょ」は特別支援学校や介護施設でも見てくださっているので、「みんな、元気?」って毎回変わらないこの一言が、世代を超えていろんな人たちに届いていて。お手紙に「『みんな、元気?』っていう言葉に、おじいちゃんおばあちゃんたちも『は~い』って言うんですよ」とあったり、本当に全国の人たちに愛してもらってるんだなあって……。なんか本当に……(涙)。
 そう、祖母は、今年の3月に亡くなったんですけど、僕の卒業のギリギリまで、入院先の病棟でずっと番組を見て喜んでくれていたそうです。自分が好きでしていたことが、祖母をはじめいろんな方に愛してもらっていたことを、改めて感じました。祖母に会いに行ったときに、病棟で歌わせてもらったり。昔子どもだった皆さんは、やっぱり童謡をすごく懐かしんで歌ってくれたりとか。本当に音楽っていうのは、聴くだけでその瞬間に帰れる、素晴らしいものだなあって。だからこそ、子どもたちと関わっている時間が一番長いお母さんには、いろんな歌を一緒に歌ってあげてほしいと思います。

――ステージではなく病棟で、お年寄りのために歌ったと聞くと、2011年、東日本大震災の後に番組で被災地を訪れ、子どもたちに囲まれて歌っていたお兄さん・お姉さんを思い出します。みんな本当にうれしそうでした。

 ええ、でも自分も、震災直後はすごく無力さを感じました。「お友達」っていつも僕らが呼んでいる、そういう子どもたちに今何もできない、なんて無力なんだろうって。プロデューサーに「現地に行きたいです」って訴えたら、「今は、いつもと変わらない『おかあさんといっしょ』をテレビから届けることが一番大事なこと。それが何よりも、見ている子どもたち、親御さんたちにとって大きなことなんだよ。僕も何かできるように考えるから」って言ってもらえて。それがラジオやその年の夏の特番につながって、現地の子どもたちが幼稚園や保育園に集まって、一緒に歌っている時間はその瞬間を楽しんでくれて、僕らが逆に力をもらいましたね。「おかあさんといっしょ」は、そのようにいろんなことを大事にしてくれるスタッフがいる、あたたかい番組だということを、皆さんに伝えていけたらいいなあって思います。
うたのお兄さん・横山だいすけ「だいすけ君の歌はつまらないといわれました(笑)」の画像2

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