2024年7月16日

タレント・井上咲楽さんロングインタビュー。物事を決める軸を周囲じゃなくて自分自身に置きたい。それをしているのが両親なんで【前編】

屈託のない笑顔とかわいらしいキャラクターで一躍人気者となったタレントの井上咲楽さん。最近ではフルマラソンの完走や、SNSで披露した手料理が話題になるなど、新たな一面が話題となっています。あらゆる分野で軽やかに、のびのびと活躍する井上さんの原点は? 幼少時から多感な十代の頃のこと、ご家族のことについて伺った本誌の貴重なインタビューからkodomoe webでは全編公開。前編をお届けします。

いのうえさくら/1999年栃木県芳賀郡益子町生まれ。第40回ホリプロタレントスカウトキャラバン特別賞を受賞し、2015年デビュー。『新婚さんいらっしゃい!』(ABC)、『サイエンスZERO』(NHKEテレ)、『ナスD大冒険TV』(テレビ朝日)などをはじめ、数々のバラエティ番組で活躍。2024年の大河ドラマ『光る君へ』(NHK総合)にも出演。著書に『井上咲楽のおまもりごはん』(主婦の友社)。

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キャンプをしていた場所が
のちに自分の家になる!?

栃木・益子町で生まれ、四姉妹の長女として育った井上咲楽さん。お父さまが長年の夢をかなえて山奥に建てた住まいは、東京で忙しい日々を過ごす井上さんにとって心が休まる大切な場所なのだとか。7歳の頃から高校を卒業するまで暮らしていたそうですが、子ども時代の井上さんに大きなインパクトを与えました。

――テレビ番組などでも紹介されたことがありますが、益子町にあるご実家は自然が豊かな環境です。

生まれてから町中の団地に住んでいて、小学校に入学する頃に山の家に移りました。その少し前から、父に「キャンプに行くぞ」って、しょっちゅう連れていってもらっていた場所があったんです。そこはキャンプ場ではなくて、何もない山の中なんですけれど、行くたびに開拓が進んでいて、だんだん更地になっていたんです。

あるときから、そこに家が建てられるようになって。「誰のおうちができるのかな?」なんて思いながらキャンプをしていたのですが、いざ引っ越し先に着いてみたら「あ、ここ、いつもキャンプをしていた場所だ!」って。

――何も知らずにキャンプを楽しんでいたら。

そうなんです、実は自分が暮らすことになる家の敷地でキャンプしていたんですよね(笑)。「自分がこんな山奥に住むことになるなんて!」って、楽しみよりも戸惑いのほうが大きかったです。

近所にお店なんてないし、引っ越しで幼稚園までの友達とも離れてしまって「これからいったい、どうやって過ごしていけばいいんだ?」みたいな感じで。学校に行くにも山なので上り下りが大変で、小学生にはなかなかハードな環境でした。「お父さんもお母さんも、どうしてわざわざ不便を求めて引っ越したんだろう?」と、子ども心に不思議に思っていました。

――どのようにして山での生活になじんでいったのでしょう。

子どもだからどうすることもできないし、「もうここでやっていくしかないんだろうな」っていう、あきらめにも似た気持ちだったような気がします(笑)。

――井上さんのご両親は、どんな方ですか?

父は男らしくて、夢とロマンを追い求める「ザ・自由人」というタイプ。昔から「裸で生活できるぐらい自由なところに住みたい」と思っていて、山での暮らしは父の願望だったんです。

母は結婚前、会社勤めをしていたのですが、あるときに突然仕事を辞めて、バイクに生活用品を一式積んで日本一周のひとり旅に出たんです。さすがに私の祖母は止めようとしたらしいのですが、「いや、私は行く。じゃあね」って振り切って。父と母は、その旅の途中で出会ったそうなんです。

――ご両親は、おふたりともどこか似ていますね。

母も山の暮らしを楽しんでいて。アウトドアなタイプではないんですが、料理が上手で、お菓子とか、保存食や調味料まで、いろんなものを作っていました。

あるとき、私が「パンが食べたい」って言ったら、買いに行くんじゃなくて、パンを一から作り出したんです。「近所にコンビニがあったら、すぐにパンが食べられたのにな」なんて思ったこともありました。

――お母さまの手づくりのパン、うらやましい感じもしますが。

本当にそうですよね、今なら手づくりのありがたみがわかるんですが、当時はなかなか。私、中学生になってから、友達とコンビニで初めておにぎりを買ったんです。でも、自分だけおにぎりの開け方がわからなかったということがありました。それから、部活帰りに初めてファーストフード店でハンバーガーを食べて、「ええっ、こんなにおいしいの!?」って、ものすごい衝撃を受けました(笑)。

自主性は尊重しながら
礼儀やあいさつはしっかりと

――ご両親に、井上さんはどのように育てられたのでしょう。覚えていることはありますか?

「勉強しなさい」とかは一度も言われたことがないんです。自分で決めたことは自由にやらせてもらえるほうで、のびのびと育ててもらったなあって思っています。ただ、礼儀やあいさつについては厳しかったですね。

靴を脱いだらきちんと揃える、食べ物は粗末にしないとかはよくあると思うんですけれど、うちの場合は食事のときに猫背になっていたら、父が庭から篠笹という、細い竹みたいな植物を採ってくるんです。それを背中に入れられて「ちゃんと背筋を伸ばしなさい」って。私、妹がいるんですが、姉妹みんなで背中から篠笹をぴょーんと出したままごはんを食べたりなんていうこともありました。

ほかのことも「よそはよそ、うちはうち」という感じでした。例えば、テレビは一日30分までだったから、流行りのものがわからなかったり。姉妹全員がひとり1個タイマーを持っていて、30分にセットしたら、残り時間をチェックしながらテレビを見るんです(笑)。なるべくたくさん見たいから、コマーシャルを飛ばしながら録画した番組を見たりして、子どもなりに工夫していました。

おこづかいは小学1年生なら100円。もちろん、学校で使うものは買ってもらえましたし、2年生で200円、6年生なら600円になって、もらえる額も増えていくんですが、「大切なおこづかい、絶対に1円も無駄にしないぞ!」って、自分のお金で何かを買うときは、すごく吟味していましたね。

――友達のおうちと比べてしまうこともあったのでは?

「うちは周りとだいぶ違うんだな」っていうのは、なんとなく感じていました。自分もみんなみたいに100円ショップでキラキラしたかわいいものをたくさん買いたくても、それもできなかったですし。それから、図工の授業で使う材料を家から持っていくとき、ほかの子は買い揃えていたりするのに、うちは「まずは家にあるもので使えるものを探してみよう」って、家にあるものでまかなったり。「もしかして、うちはお金がなくて町に住めなくなったから、山奥に引っ越したり、パンとかも作ったりするのかな?」って、無駄に心配していましたね。

――井上さんは四姉妹の長女です。

2歳差、4歳差、いちばん下の妹とは11歳差です。3人とも病院でお産にも立ち会ったんです。三女、四女が生まれるときのことはすごく覚えていますね。小さい頃から母を手伝って、妹たちのおむつを替えたり、お風呂に入れたりしていました。小学校に上がるときには母と一緒に「もうランドセルを背負うようになっちゃって! 
大きくなるのは早いねえ」なんて言っていました。

でも、反抗期には両親にだけじゃなく、私にもちゃんと反抗してくるんです。「あれ? 私、お姉ちゃんなんだけどな」「お風呂に入れてあげていたのにな」って思ったりして。妹というよりは、なんとなく自分の子どもみたいな感じはあるかもしれません。

父は妹たちには甘々だったんです(笑)。私とすぐ下の妹が叱られたようなことでも、いちばん下の妹が同じことをしたら何も言わなかったり。「私たちのときは怒られたのに!」「まあまあ、落ち着いて」みたいな。でも、根本的な育てられ方は変わりませんね。

子どもの頃から将来の夢は
「テレビに出る人」

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――ご自身が子ども時代に抱いていた将来の夢は覚えていますか? 「こんな大人になりたいな」とか。

幼稚園の頃からテレビに出る人になりたかったんです。Eテレの子ども向け番組に自分と同じぐらいの年齢の子が出ているのを見ているうちに「テレビに出られていいな、私もこんなふうに特別な人になりたい」って思っていました。

当時は芸能人という言葉を知らなくて、大好きだった『クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!』という番組がきっかけで「そうか、テレビに出ている人はアイドルという呼び名なのか」と認識するようになったんです。

それで、小学2年生ぐらいのときに文集で「将来はアイドルになりたい」って書いたことがありました。いわゆる歌って踊るアイドルではなくて、私の中では「テレビに出る人」ぐらいの感覚だったんですけれど、クラスのみんなに「うそだろ、井上がアイドル?」「そんなに暗いのにアイドルに!?」と言われてしまって。

――井上さんは子どもの頃、内気なタイプだったのでしょうか?

今でも根は変わらないんですが、完全に陰キャでしたね。休み時間や放課後はずっと図書室にいたんです。通いつめすぎて6年連続で「学年でいちばん本を読んだで賞」みたいなのをもらったほどで。そんな子がいきなり「アイドル」なんて言い出したら、それは周りもびっくりしますよね。

――殻に閉じこもっていた?

どうだろう、でも、自我みたいなのは強かったと思います。クラスの一軍みたいな、活発なグループってありますけれど、ほかの子がなんとなく一軍の子たちに遠慮してしまうような雰囲気ができたりしますよね。例えば、席替えのときにじゃんけんで勝った人から席を選べるときに、じゃんけんをする前にリーダーの子が「私、この席にする」って言ったら、そこはあけておこう、みたいな。だけど、私もその席がいいものだから、先に勝ったらしれっとその席を選んじゃったり。陰キャなのに自分の意見は絶対に曲げない感じの子どもでした。

――自分の内に意思をしっかりと持っていて。

本当はみんなに注目してもらいたいけれど、ちょっとひねくれていたし、自分からはぐいぐいいけるタイプじゃなくて。唯一、自分が目立つことができるチャンスが体力テストのシャトルラン。私、これがすごく得意だったんです。「井上って、あんなに速く走れるんだ!」と言ってもらえることが嬉しくて、気持ちよくて、なんだかスターになれたような気分が味わえるし(笑)。シャトルランの日に向けてこっそり練習して持久力をつけたりとか、謎の行動に出たこともありました。

――人前に出たいのに出られない感じは、その後も変わらなかったのですか?

中学に入学してバレーボール部に入ったのですが、陽キャの子が多かったこともあって、自分もだんだん明るく振る舞えるようになったんです。中1から学級委員をやったりして。小学生の頃、クラスのお調子者みたいな、みんなにいじってもらえる子がひそかにうらやましかったんですが、自分が明るくなったら周りのムードも変わっていったんです。

「井上はおとなしいから」と、みんなに気をつかってもらっていたんだと思うのですが、眉毛のことを、それまで一度も言われたことがなかったんです。でも、自分が陽キャになったら、男子に「井上の眉毛、太いな! カモメみたいだぞ!」って。「わあ、私もいじってもらえた!」って、すっかり嬉しくなっちゃって。

――高校生になってからも学校生活は充実していたのでは。

それが、同じ中学だったメンバーがほぼいない高校に進学したこともあって、陰キャに逆戻りしちゃって。高校に入っても明るい感じで行けるものだと思っていたのですが、最初の自己紹介でボケたら、見事にすべってしまったんですよ、つかみが肝心なのに(笑)。「中学のときは自分がみんなを笑わせていたと思ったけれど、私って、井の中の蛙だったんだなあ」って、しゅんとして。我ながら多感な十代でした。

後編「飽き性で、いろんなことをやりたくなるのがコンプレックスだった」はこちらから

INFORMATION

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『井上咲楽のおまもりごはん』
井上咲楽/著 主婦の友社 1650円

SNSで話題となった「なすぼけ」「ビルマ汁」をはじめ、作りたくなる約40品のレシピが登場。調理や盛り付けに至るまで、掲載されている料理はすべて井上さん自身が手掛けています。

インタビュー/菅原淳子 撮影/山田薫 スタイリング/池田木綿子 ヘアメイク/開沼祐子(kodomoe2024年8月号掲載)

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