お笑い芸人・ハリセンボン近藤春菜さんロングインタビュー。気づいてくれた人がいたから「私も芸人になっていいのかもしれない」って【前編】
いつだって明るくて穏やか、だけど鋭い突っ込みで、見る人を自然と笑顔にしてくれる人気お笑いコンビ・ハリセンボンの近藤春菜さん。テレビで見せてくれる表情とは裏腹に、芸人になるまでにはさまざまな葛藤があったのだとか。大人になってからの友達づくり、新しい場所での関係構築など、近藤さん流のアドバイスも満載の本誌の貴重なインタビューを全編公開。今回は、前編をご紹介します。
ハリセンボン近藤春菜さんロングインタビュー後編はこちら
こんどうはるな/1983年東京都生まれ。2003年、NSC東京校で同期だった箕輪はるかとお笑いコンビ「ハリセンボン」結成、2004年デビュー。『M-1グランプリ2007』第4位。『土曜スタジオパーク』(NHK総合)、『内村のツボる動画』(テレビ東京)など、レギュラー番組多数。連続テレビ小説『花子とアン』(NHK総合)をはじめ、ドラマや映画にも出演し、俳優としても活躍中。
人見知りで繊細でも
徐々に自分を開けるように
お笑い界のみならず、多様なジャンルで活躍するハリセンボンの近藤春菜さん。ユーモアたっぷりで温かな人柄に惹かれてか、近藤さんの周りには自然と人が集まり、その交友関係の広さもたびたび話題に。ところが、意外にも子どもの頃の近藤さんは、極度の人見知りだったそうなのです。
――近藤さんのご両親は、どんな方だったのでしょう。
父は元警察官で、堅い仕事ではあったんですけれど、父自身はユーモアがあるというか、楽しいことが好きな人で。私、2歳上の兄がいるんですが、いつも父が兄とか私にちょっかい出してくるんです。身内の集まりでも、親戚中の子どもにヤなちょっかいを出してちょっと嫌われるっていう(笑)。
このあいだ、父方の祖母のところに一緒に行ったんですが、そのときも祖母にちょっかい出して「やめて」って言われていましたね……。単純に人と関わりたい、楽しませたいっていう気持ちでやっているんだとは思うんですけれど。母は父と対照的で、わりと真面目なタイプで。
――お仕事柄、お父さまのほうが真面目というイメージもあります。
逆ですね。もちろん、仕事は真面目にやっていたと思うんですが、家に帰ってきたら、もう全然。母には「あなたたちが何か悪いことをしたら、お父さんのお仕事はなくなっちゃうのよ」みたいなことを言われていて。まあ、兄も私も悪いことしたいなんて思ってなかったんですけれど、それぐらい大切な仕事をしているんだなっていうことは感じていました。
私が小学生ぐらいの頃は特に忙しかったみたいで。呼び出しがあれば夜中でも出ていったり、夏休みなんかも家族揃って出かけられる機会はあまりなかったんですけれど、「お父さんって、世のため、人のために頑張ってるんだな」って思っていて。母がそれとなく私たちに分からせてくれていたというのもあって、父のことは、幼い頃からすごく尊敬していましたね。
――近藤さんは、どんなお子さんでしたか?
今、こうして芸人をやっていることを私の子ども時代を知る人は「信じられない!」って言うぐらい、人見知りで内弁慶だったんですよ。クラス替えのたびに友達を作るのに3か月くらいかかっていましたし、手を挙げて何かを発言するみたいな、人から注目されることもドキドキしちゃうような子どもでした。
――今の近藤さんからは想像できません。
まあ、今も根本は変わらないところもあるんですけれど、芸人になってから「いやいや、人見知りなんて言っていられないし」って、今みたいになっていった感じです。
それと、子どもの頃は毎週のようにガールスカウトの活動に参加していたんです。初対面の人と会ったり、人前で話す機会が多かったりしたので、そこで鍛えられたところもありますね。
――ガールスカウトを始めたきっかけは?
父と兄がボーイスカウトをやっていたんです。「ガールスカウト、やってみない? 友達がたくさんできるよ」って誘われて、小学1年生のときから始めました。
ガールスカウトって、本当にいろいろな活動をするんです。その中にお泊まり会もあって。わりと遠出して泊まるんですけれど、初参加のときは前の日に泣きまくりました。家族と離れることも嫌だったし、家族以外の人と知らない場所で寝るっていうのも不安でたまらなくて。
――繊細だったのですね。
泣きながら「私、ひとりで大丈夫かな?」って、親に何度も何度もたずねて、「大丈夫、大丈夫だよ」って言ってもらうというのを延々と繰り返した記憶があります。
――ガールスカウトの活動で印象に残っていることはありますか?
何年かに一回、世界中から集まったガールスカウトの子と活動する機会があったんです。単純にいろいろな国の子と会えることも楽しかったし、海外の子って、みんなすごく明るくて、怖いものなしという感じで。「あ、私は何を縮こまっているんだろう」って思いましたね。私なんて、ビビリながら誰かに言われたことをやるしかできないのに、海外の子はやりたいことをやる、食べたいものを食べる、そういう感じで。なんか、自由でいてもいいんだなあ、と。
かわいいよりも、面白く
人を楽しませることが好きに
――いろいろな経験をされたのですね。小学校では、どんなふうに過ごしていたのでしょう。
心を開ける友達の前でだけ、先生の真似とかをして笑わせたりしていました。その頃から自分が何かをして楽しんでもらったり、喜んでもらったりすることが好きになって。内弁慶だから仲間内でしかやらないんだけれど、実は他の人のこともチラチラ見て意識するっていう。見つけてくれないかな、みたいな感じで。
――「楽しんでもらいたい」という気持ちは、今の近藤さんの原点にもなっているのでは。
どうしてそう思うようになったかは覚えていないんですけれど、ただ、ちっちゃい頃から「かわいいね」って言われるよりも「面白いね」って、喜んでもらえるほうがしっくりきたんですよね。
あとは、家族や友達と一緒にいるとき、何かで自分がわーっと笑って、で、その笑いが周りにも連鎖していって、最後にはみんなで一緒に笑うっていうのが、なんかいいなあと思っていて。「笑うって、楽しいし、好きだなあ」っていうのは感じていました。
――小学生の頃から芸人になりたいと思っていたのですか?
当時は東京ディズニーランドで働く人になりたかったんですよ。自分が行ったときに楽しませてもらって「なんて素敵なお仕事なんだろう!」と。それで、子どもながらに「自分も誰かを喜ばせたい」って思っていたんです。
――仕事のジャンルは異なりますが、近藤さんがやりたいことは、幼少時からぶれていないのですね。
そうですね。芸人という仕事を意識するようになったのは、やっぱりテレビの影響が大きいです。小学生のときからウッチャンナンチャンさんやダウンタウンさんの番組を見ていて、「テレビを見てこんなに笑うことあるのか!?」っていうぐらい笑わせてもらっていて。ほのかに「自分もこういうふうになりたいな」とは思っていましたが、「芸人になろう」と決めたのは、中学生の頃ですね。
これぐらいの年頃になると、みんなの前に出て行ってボケたりする目立ちたがり屋の男の子とかがいるじゃないですか。クラス中が笑っているんだけれど、私は悔しさを感じていて。「そんなに面白くないのに、どうしてみんなは笑っているんだろう」とか、「よくそれで前に出れるなあ」とか、目立ちたがり屋を斜めから見ていたというか。自分がすごくヤなやつなんですけれど、その子に嫉妬していただけだったんですよ。「本当は私もあの子みたいに前に出て、みんなを笑わせたいのに」って。
――そこで確信したのですね。
だけど、あいかわらず人前に出て何かをするって、私にとってはかなりハードルが高いことで。小学生の頃と同じように仲間内とか、仲のいい先生の前でしか面白いことを言ったりやったりできなかったし、芸人になりたいっていうのも、ごく一部の友達にしか言えなかったんです。
それでも中学を卒業するとき、寄せ書きに中3の担任の先生が「将来、テレビに出ていそうだね」って書いてくれたんです。中1と中2のときの担任の先生も「クラスのムードメーカーとして、みんなを楽しませてくれてありがとう」と。それを見て「自分も芸人になっていいのかもしれない」って、背中を押された感じがしました。
――お話を伺っていると、近藤さんご自身の自己評価と周りからの評価がだいぶ違うような。
「一部の人に向けてやっているけれど、みんなも見てくれないかな」オーラが出ていたのかな。そういえば、当時、クラスの文集でランキングコーナーがあったんですけれど、「将来、芸人になりそうな人」の女子部門1位になっていたんですよ。私は抑えに抑えていたつもりだったけれど、めちゃくちゃ「見て見て!」な感じが溢れていたんでしょうねえ(笑)。
テレビっ子だった高校時代
はじめてのコンビ結成も
――どんな高校生活を?
試合でほぼベンチだったんですが、中学の部活でバスケをやっていた流れで、高校でもバスケ部に入ったんです。でも、自分以外の部員はスポーツ推薦で入ってきたような上手な人ばかり。そもそものレベルが違うし、自分がみんなの足を引っ張っちゃってるなあって思ってしまって、3か月で辞めて。それからはずっと帰宅部でした。挫折感は多少あったんですけれど、辞めてからすごく気が楽になったんですよね。
――どうしてですか?
なんていうか、子どもの頃から一度始めたことを途中で辞めるなんていいことじゃないって、どこか頑なになっていたんです。でも、辞めたら時間ができて、新しいことを始めたりとか、自分が好きなこと、楽しいことができて、今まで何をそんなに思い詰めていたんだろうって。
――では、放課後は存分に好きなことを。
もうね、完璧にテレビっ子。テレビばっかり見てましたね。バラエティもドラマも、音楽番組も、なんでも。学校が終わったら寄り道もせずに速攻で家に帰って、ずーっとテレビを見ていて。そうこうしているうちに、なんかこう、「あ、やっぱりこの中に入りたいなあ」っていう気持ちが改めて芽生えたんですよね。
父が警察官だったし、自分もなろうかなという思いが一瞬よぎったこともあったんですけれど、「そうじゃなくて、自分はドラマとかに出て、警察官の制服を着るんだ」みたいな。
――そして高校生の頃に、お笑いコンビを組みました。
ガールスカウトで一緒だった子に誘われたんです。「芸人になるために何かしなきゃ」って思っていたので、いいチャンスだと思って組んだんですけれど、彼女とは気持ちのギャップがあって。その子はすぐにでもネタを作って、オーディションを受けて、一日でも早くデビューしたいっていう感じだったんです。でも、私はそこまで気持ちが追いつけてなかったんですよね。ネタの作り方なんてわからないし、お笑いライブも観に行ったことがなかった。オーディション雑誌を見ても「なんか怖いな、やっぱり自分には無理なんじゃないかな」って思ったり。結局、コンビは自然消滅になりました。
――臆病になっていたのですね。
それはもう、子どもの頃からのビビりを遺憾なく発揮して(笑)。焦りはありつつも、自分の本気度が足りないんじゃないかとか、いろいろな感情が湧いてきて、ずっと葛藤していましたね。
高校卒業後の進路を考え始めたときも、芸人にはなりたいけれど、オーディションを受けたり、養成所に入ったりっていう勇気はなくて。とりあえずは演劇科もある短大に行ってみようという感じで進学したんです。
ただ、今となっては、あれが自分のタイミングだったんだろうな、と。短大を出てからNSC(吉本総合芸能学院)に入学したのですが、そこで同期だった(箕輪)はるかに会えたわけですし。これが数年ずれていたら、はるかには会えていなかったし。
――長い目で見ると、やりたいことがあるからといって、焦って無理に進もうとしなくてもいい、と。
誰かに「今すぐやったほうがいいよ」って言われても、そこに向かうための勇気とか心構えって、自分の中からしか湧き上がってこないですしね。自分で「ここだ!」って思えるタイミングで行かないと、人のせいにしたり、後悔したりするかもしれないし。「もう本当にここでやらなきゃヤバい!」みたいな、自分で自分のお尻を叩くタイミングってあると思うんです。私の場合、それが二十歳のときだった。「今こそ踏み出さなきゃ」って、それでようやくNSCの門を叩けた感じです。
kodomoe2月号ではさらに、大人の友達づくりや「授乳インスタライブ」についてなど、インタビューは続きます。
INFORMATION
『ハリセンボン・近藤春菜の「BAR HARUNA」』
www.youtube.com/@with/videos
さまざまな分野で活躍するゲストを招き、バーを舞台に抜群の聞き出し力で近藤春菜がゲストの魅力を引き出します。『with』(講談社)の公式YouTubeチャンネル内で配信中。
『ハリセンボンOfficial Channel』
www.youtube.com/@harisenbon/videos
ハリセンボンの公式YouTubeチャンネル。毎週金曜日18:00に新作動画をアップ。グルメにゲーム対決、コントまで、ハリセンボンのふたりが思いついたことを気ままにやっています。
インタビュー/菅原淳子 撮影/山田薫 スタイリング/大仲翔 ヘアメイク/谷口友海(kodomoe2024年2月号掲載)