2022年11月12日

元サッカー選手・中村憲剛さんロングインタビュー。妻と生まれてくる子ども どちらかの命なんて決められるわけがなかった【前編】

川崎フロンターレの中心選手、また日本代表としても活躍した中村憲剛さんは、サッカー界きっての子煩悩としても有名です。仕事と家庭の両立、その向き合い方を変えたのは、人生を揺るがす大きな出来事がきっかけでした。
kodomoe webでは本誌の貴重なインタビューを全編公開。前編は、自身の子ども時代や大学時代からの付き合いという奥さまと3人のお子さんについておうかがいしました。

なかむらけんご/1980年、東京都出身。小学1年生からサッカーを始め、都立久留米高校、中央大学を経てプロ入り。後に結婚する妻は大学サッカー部のマネージャー。現役時代は川崎フロンターレ一筋で、チームに悲願のJ1初優勝など多くのタイトルをもたらす。個人としても年間最優秀選手賞を獲得し、日本代表としても活躍。2020年に引退後、サッカー指導者、解説者として活躍中。

大学までほぼ無名の存在でありながら、日本代表に昇りつめてW杯にも出場した中村憲剛さん。18年間プレーした川崎フロンターレでは、3度のJリーグ優勝など多くのタイトルに恵まれました。その栄光を支えたのは、大学時代からの付き合いという奥さまと3人の子どもたちでした。

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――サッカーを始める前はどんなお子さんでしたか?

通信簿に明朗快活と書かれるような、教室でじっとしていられない元気なタイプでした。僕は末っ子で姉が2人いるんですが、それぞれ12歳と10歳離れていて。甘やかされて育つ中で、姉たち年上の世界に触れて観察眼が磨かれたような気がします。

――中1の夏にサッカークラブを辞めて、約半年間ピッチから離れたそうですね。そのとき両親は何も言わなかったんでしょうか?

何も言われなかったですね。父は広告代理店勤め、母は専業主婦なんですが、僕がどうしたいかをすごく尊重してくれました。今、自分が親の立場になってわかるんですが、あれはすごかったなと。親ってつい口を出したくなるじゃないですか。でも両親は僕がやる気を失っているのを理解して、そっとしておいてくれたんです。

――今振り返ると、ドロップアウトした半年はどんな時間でした?

僕は中1のときに身長が136cmしかなかったくらい背が小さくて、それでも小学校のときは関東選抜に選ばれたんですね。ただ、そこで初めて大きな挫折をして、そのまま中学に入るのですが、更にうまくいかなくなって。しかも、よりによってそれを指導者や環境のせいにして、そういう自分にも嫌気がさして辞めました。でも一度距離を置いたことで、いろいろと心の整理ができたんです。あのまま無理して続けていたら、心がもたずに本当にサッカーを辞めていたかもしれません。あそこが分岐点になり、「人のせいにするのではなく、自分でどうするかを考えよう」、「小さい自分だからこそできるプレーがあるはず」という考え方に切り替えられた。中2になって中学校のサッカー部に入部することを決めたとき、母親からは「あなたはサッカーが好きだからいつか戻ると思っていたわ」と温かい言葉をかけられました。

――お父様から言われて覚えている言葉はありますか?

父からは「勉強しろとは言わない。ただ、うまくいってもいかなくても、その責任を取るのはおまえ自身だ」と言われ続けました。やるかやらないかはすべて自己責任。その通りですよね。18年間の現役時代、ずっとこの言葉が胸にありました。今、自分の子どもたちにも「やるかやらないか、最終的にはすべて自分次第だぞ」と伝えています。

――高2までずっとクラスで一番背が低かったそうですね。結果的にそのハンデが才能を磨いた面はありましたか?

僕が日本代表にまでなれた要因は、すべてそこにあったのかなと。背が低かったからこそ、いろんな工夫をしました。だから今、指導者として小さい子には「今苦しんでいることが、大きくなったとき必ず実を結ぶぞ」と伝えるようにしています。逆に大きい子に対しては「今のうちに工夫しないと必ず壁にぶつかる」と。限られたスペックの中で自分の価値をどう出すか考えると、すごく成長します。

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三人目が生まれる直前まで
ほとんど家にいられなかった

――プロ6年目の2008年9月に第一子(長男)が生まれましたね。仕事と家庭の両立は大変でしたか?

今でも妻に言われるんですが、僕はその頃ほとんど家にいられなかったんですよ。1月は川崎フロンターレのキャンプがあるし、日本代表の活動も定期的に入ってきて。空けるときは平気で1か月くらい不在になるわけです。たとえば息子が初めて熱を出したときに家にいなかったり。いろんな出来事を共有できませんでした。

――2010年4月に第二子(長女)が生まれました。そのときもひょっとして……。

その年はW杯イヤーでもありましたし、輪をかけて家にいられませんでした。家にいたらおむつ替えやお風呂はもちろん手伝うんですが、あくまで一時的に肩代わりするレベル。更にタイミングの悪いことに2010年2月に僕はアゴを骨折してしまい、妻はお腹が大きいまま僕の入院手続きをしてくれました。第一子と第二子は2学年しか違わないのに、妻はワンオペ状態。

――奥さまは相当大変だったでしょうね。

本当にそう思います。なので、妻には本当に頭が上がりません。ただ、真の意味でその大変さがわかったのは第三子の出産のときなんです。人生観が変わるくらいの出来事だったので……。

――まずは第二子までの話を先に聞くと、夜泣きで寝られず、プレーに影響したことはありましたか?

ネガティブなストレスは一切なかったですね。子どもたちは試合で勝ったときの喜びを倍に、負けたときの悔しさを等分してくれる存在でした。妻と子どもたちとは1つのチームのような感じなんですよ。たとえば僕は試合の2日前になると、無意識になんですがピリピリし始めていたらしく、子どもたちを「パパなんか機嫌悪いね」と怖がらせてしまっていたんですね。そういうときに妻が「週末試合だから。そっとしておこうね」とフォローしてくれていたんです。長男と長女も物心ついてからは父親の仕事を理解し、すごく気遣ってくれたと思います。

――普段の生活で、奥さまと衝突してしまうことはありましたか?

今でもしょっちゅうありますが、特に当時はひどかったですね。自分に集中しすぎて、妻の状態まで目が行き届かなかった。妻がすごく疲れているのに「どっか飯食いに行きたいな」とか、わがままな自分の感情を優先してしまって。台所にいる妻の背中から、急に怒気がワワァーって立ち昇る感じがして、「あ、俺地雷踏んだな」と気づくことが多々ありました。

――そういうときは憲剛さんからすぐに謝る?

内容によって謝るときもあれば、嵐が通り過ぎるのを待つときもあります。バーッと妻に言われると、僕は絶対反論しないんですよ。なぜかというと、抵抗したところで論破されるのが目に見えているので。大体やられっぱなしです。改めて振り返ると、フロンターレの真の司令塔は妻だったんじゃないかと思うことがあります。

――どういうことですか?

僕はフロンターレの司令塔でしたが、中村家の司令塔は妻でした。僕が家で乱れなければ、フロンターレの勝利につながる確率は上がる。イコールを結ぶと、妻がフロンターレの司令塔だったかなと(笑)。彼女は中村憲剛がフロンターレの中でどういう存在かをわかっていて、サポーターやメディアに与える影響も理解していた。そういう視点でたくさんアドバイスしてくれました。支えられているというより、共に歩んでいるイメージが僕の中にはある。多分、彼女もそういう気概があったと思います。

――落ち込んでいるときに励ましてくれる?

妻は逆を突いてくるんですよ。慰めて欲しいときに叱咤激励したり、調子に乗りかけているときに地に足がついた視点をくれたり。38歳のとき、怪我が続いた時期があって、「もう無理、辞めようかな」と投げやりに愚痴をこぼしたときには、妻から「だったら今すぐ辞めちまえ!」と怒鳴りつけられました。あまりの口調にびっくりしましたが、すぐにやってやろうじゃないかって燃えましたよ。妻は基本的にポジティブ思考で、僕にはない選択肢を常に示してくれるんです。

――スランプを家族のせいにしたくなってしまう選手もいるそうですが、憲剛さんは「妻と一緒になってから自分のキャリアは一度も落ちてない」と公言していますね。

家族のせいにするというのは、僕には理解できない感情ですね。妻と子どもたちとの時間を思い出すと、それはありえない。どれだけ助けてもらったのかと。自分が少しでもそういう感情を抱きそうになったら、その瞬間に自分で自分を叱りつけると思います。

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妻の命と子どもの命
突きつけられた選択肢

第三子の出産の際、夫人は第14週で破水、前置胎盤で「奥さまの命が危険な可能性があります。お子さんを諦めることも考えてください」と選択を迫られたという。

どちらかを選ばなきゃいけないと言われたんですが、決められるわけないじゃないですか。告げられた瞬間、自分の世界から色がなくなったように感じました。見えるものすべてがグレーになってしまったんです。数日間、一睡もできませんでした。だって、自分が決断したらその通りになってしまうんですよ。そういう中、練習や試合へ行かなきゃいけない。当時はリーグも終盤戦に入り、順位がかかった大事な試合が続く時期だったんですが、正直、ボロボロの状態でした。

――医師から言われたことを、奥さまにいつ告げたんでしょうか。

数日後です。今でもよく覚えていますが、妻が本当に強くて、「他の病院にも話を聞きたい」と言って自分で転院先を探し始めたんですよ。すごいなと思いました。落ち込んで悩んで何もできなかった自分が恥ずかしくなりました。妻は自分のお腹の中に赤ちゃんがいるから強さが違うんですよ。よく「母は強し」って言いますが、本当にその通りだと思いました。

――他の病院で診察した結果、絶対安静という条件で、自宅で過ごすことが認められました。憲剛さんにとってどんな日々でしたか?

生活が一変しました。それまではすべて妻に任せて、自分はサッカーを好きにやっているだけでしたから。義母と僕の姉が午後に手伝いに来てくれましたが、朝は僕がやるしかない。朝起きてお弁当を作り、子どもを起こして準備をさせ、バス停に送り出す。ちょっと大袈裟かもしれませんが、34歳、35歳にして僕は本当の意味で自立を果たした気がします。世のお父さんたちはもっと奥さんに感謝しなきゃいけない。家事も子育ても究極のマルチタスク。自分がその立場にならないと、あの大変さはわからないと思いました。

――2016年3月9日、奥さまは困難を乗り越えて第三子を出産されました。

状態がある程度安定して、出産当日を迎えることができました。ただ、次女が無事に産まれた後、妻の出血が止まらなくて。看護師さんに「おめでとうございます」と言われたものの、カンガルーケアの時間もなく、先生たちが慌ただしく行き来し始めた。もう気が気じゃなかったです。病室のドアを開けて、妻と次女が一緒にいる姿を見たときは涙が止まりませんでした。出産は奇跡だと改めて思いました。

後編はこちらから

INFORMATION

元サッカー選手・中村憲剛さんロングインタビュー。妻と生まれてくる子ども どちらかの命なんて決められるわけがなかった【最新号からちょっと見せ】の画像4『ラストパス
引退を決断してからの5年間の記録』

中村憲剛/著 KADOKAWA 1650円
現役生活最後の5年間。家族の命の危機や自身の大怪我といった困難を乗り越え、多くの輝く瞬間を味わった。その裏にあった家族や同僚との支え合いと、愚直にサッカーと向き合った日々の記録。

インタビュー/木崎伸也 撮影/キッチンミノル(kodomoe12月号掲載)

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