2020年12月4日

山崎ナオコーラさんロングインタビュー。自分が生きている世界の他にもう一つ別の世界がある。本は私にとって救いの場所だった【前編】

紫式部か清少納言に。
仕事を持てと母

作家の山崎ナオコーラさんは、1978年福岡に生まれ、埼玉で育った。心に届くエッセイの書き手としても知られており、折々に、性別に縛られることへの違和感を率直に綴っている。その居心地の悪さはいつ芽生えた感情だろうか。

――ご両親に「女の子らしく」と言われてお育ちになったのですか。

父と母には家庭の中での性別役割分担が基本的にありましたし、本人たちは「男性らしく」「女性らしく」を意識して生きてきた人たちだと思います。でも、両親が私に「女の子らしく」と言ったことは一度もないんですね。

――恵まれてます。

すごく恵まれてたんだと思います。だから私の言うことが変だと思っても、矯正しようということはなかったんですね。私はレースのワンピースとかリボンのついてるスカートとか、母親が選ぶ以上に女の子っぽい服が好きだったし、恋愛対象も男性だから、男になりたかったわけではまったくない。ただ物心つくようになると、「女の子らしく」という世間の規範はわかりますよね。私の時代は、中学に入ると男子は技術、女子は家庭科と分かれてたんですが、そのことにすごく反発心を抱いて、職員室まで先生に「なんで女子だからって家庭科なんですか」って聞きに行ったりしました。

――ではご両親の影響ではない?

ただ7歳まで母が毎週のように図書館に連れて行ってくれたし、絵本も買ってくれて、私はすごくたくさん本を読んだんですが、母自身も本好きで、俳句をやったりしていました。で、本人が言うには、母はすごく勉強ができて、東大合格者を輩出するような高校に入ったのに、親に「女だから大学へは行かせられない」と言われて泣く泣く進学を諦めたそうです。母は、そのことを、しょっちゅう言ってたんですよね。

――お母さんのその話を聞いていた影響は大きいと思います(笑)。

確かにその影響はありますね。母は、「専業主婦は何か決めたいときにも一人では判子が押せない。女の人も仕事は持った方がいいし、大学へ行った方がいい」ということはよく言ってましたね。「紫式部や清少納言みたいになれ」と言われた記憶もあります(笑)。

――それは母の教えです。

勉強、勉強とは言われなかったけれど、本をいっぱい読んだ方がいいとか、絵画やお習字、水泳とか、学習塾も小3から行くようになりました。中流家庭の経済状況にしては随分お金をかけてもらったなあと思います。自分たちが大学に行ってないから、「何かしらのいい仕事に就いて欲しい」と漠然と思っていたんだと思います。

――本は逃げ場だったと書いておられます。人とのコミュニケーションは苦手だったんですか。

子ども時代は、ものすごく苦手でしたね。教室にひとりぐらい、一日中ひと言もしゃべらない子どもがいますが、それです。だから先生にとっては問題児だったんでしょうね。どんなに頑張っても、絶対手も挙げられなかったし。

――ずっとひとりっ子状態でしたから、学校という社会に出たときに違和感があったのでしょう。

完全なる内弁慶で、家では父親と対等にしゃべったりするのに(笑)、学校では全然しゃべれなかった。それは高校までずっと続きましたね。高校時代も定期券を買うだけなのに、窓口の前をウロウロウロウロ。文芸部に入りたくて文芸部の部屋の前をずっとウロウロして、結局「入りたい」と言えなくて帰宅部になっちゃったんです。

――ご両親が心配されたのでは。

不思議ですけど、何も言われたことはないですね。妹の身体が弱かったこともあったと思います。私が小学校、中学校ぐらいのときは妹が何度も入院していました。私は一応勉強もできたので、多分そんなに気にしてなかったんだと思います。

山崎ナオコーラさんロングインタビュー。自分が生きている世界の他にもう一つ別の世界がある。本は私にとって救いの場所だった【前編】の画像2

 

読書は逃避場所。
本を作る人になる夢

――学校での孤独を癒したのが読書だったんですね。

小4のときに『不思議の国のアリス』を読んで、ものすごく衝撃を受けて、「私が好きなのはこの本だ」と初めて思った記憶があるんです。『不思議の国のアリス』って、穴に落ちて別の世界に行くじゃないですか。本を読むのはまさにそういう体験ですよね。自分が生きている世界の他にもう一つ別の世界があって、本を開けばすぐそこに行ける。現実が辛かったから、もう一個の世界があるということは救いでした。
『不思議の国のアリス』には、教養的なことが書かれているわけではない。絵本や童話って、「早く寝ましょう」とか「妹に優しくしましょう」とか少しはあるんですけど、『不思議の国のアリス』にはそれが皆無だから、「あ、本っていうのはこれでいいんだ」ってすごく思ったんです。それは今でも私の芯にあって、そういうふうなものを書きたいと思っています。

――小さな頃から本に携わる人になりたかったとか。

「本を作る人になりたい」と思ったのは幼稚園の頃です。中学で進路希望調査があったとき、「第1希望OL、第2希望小説家」と書いて提出したら、「山崎はOLは多分無理だから小説家の方がまだなれる」って担任の先生が言ったんですよね(笑)。その頃、OLは誰でもなれるものだって思ってたのに。実際、大学出たあとにOLみたいな仕事をしたんですけど、本当に向いていなかった。ミスもいっぱいしたし、毎日お昼ごはんを決まったメンバーと食べるのも辛くて。「あ、やっぱり向いてないんだな」って思いました(笑)。

――帰宅部だった高校時代は?

高校時代はもう完全なる暗黒時代です(笑)。中学までは友達も、話せる子もいたんですが、高校は本当に一人もいなかったです。休み時間も本を読んでやり過ごしていましたね。親も、その頃はダメな子だと思っていたと思います。朝も起きられなくて、父親に駅まで車で送ってもらっていたんですが、顔色も暗かったのか、父がヤバいって感じている空気がビンビンに伝わってきました(笑)。当時、オウム事件があった頃で「お前、新興宗教に気をつけろ」って父親から言われたことも(笑)。でも確かに深刻な、厭世的な空気が出てたんだと思います。

――一浪して、國學院大学へ入学。大学入学をきっかけに自分を変えていったのですか。

いや、その当時は「人とも全然しゃべれないし、こんな感じで大人になれるんだろうか」という思いがありました。でも、大学に入ったら突然それが変わって。声をかけてくれる友達がいて、マンドリンサークルに入ると、なんか友達が急にバーッとできて。そこからしゃべれるようになったんです。

――世界は変わったんですね。

すごく変わりました。

念願の作家への道を踏み出そうとしたのは、大学4年のときだ。新人作家の登竜門のひとつ「文藝賞」に投稿し、落選。就職しても書き続け、3度目に投稿した『人のセックスを笑うな』で「文藝賞」を受賞、芥川賞候補になった。山崎さんの世界は再び変わった。自分で変えた。

――働きながら書くのは大変だったと思います。

通勤の満員電車の中や隙間時間にカフェで書き、家に帰ってパソコンで打ってそれをプリントアウトし、また満員電車で立ちながら直したりして、小説を作っていましたね。当時は、本屋さんの棚に自分の本が置かれるのが一番の夢で、一冊でいいから本を出したかった。

――デビュー作は随分話題になりました。タイトルも、ナオコーラという名前もインパクトがあった。

当時は、思った以上に注目をされている感じがあって、わぁって思いました。すごく地味な人間だったから、何も怖いものがなかったんだと思います(笑)。「こういう名前にしたらどういう反応があるか」とかも想像できなくて、25歳まで「セックス」なんて単語は1回も発したことがなかったのに、ポーンッと書いちゃったんですよね(笑)。父には最初に「読まないでほしい」と言ったら、「わかった、読まない」って。でも、新聞で連載を書いていたときは、それだけは読んでくれたのか、たまに父から「エッセイがよかった」ってFAXが届いたりしました。

 

BOOK INFORMATION

ハハコにおすすめ
山崎ナオコーラさんの本

山崎さん初となる絵本はお父さんが主役。「絵本に出てくるお父さんは、お母さんとは違う役割の親というお話が多いので、そうではなく、お父さんがかわいいというだけの絵本を作りました」。家族の存在がますます愛おしくなる一冊です。

山崎ナオコーラさんロングインタビュー。自分が生きている世界の他にもう一つ別の世界がある。本は私にとって救いの場所だった【前編】の画像3『かわいいおとうさん』
山崎ナオコーラ/ぶん ささめやゆき/え こぐま社 本体1200円+税
 
「おとうさんのかお ずっと ずーっとみていたいよ あさも よるも みていたいよ」。子どもはみんなお父さんが大好き!

山崎ナオコーラさんロングインタビュー。自分が生きている世界の他にもう一つ別の世界がある。本は私にとって救いの場所だった【前編】の画像4『母ではなくて、親になる』
河出書房新社 本体1400円+税
 
37歳で待望の出産。作家と書店員夫婦の、妊娠から子どもが1歳になるまでのエピソードを明快に綴った子育てエッセイ。

最新情報はツイッターをCHECK!
twitter.com/naocolayamazaki

インタビュー/島﨑今日子 撮影/大森忠明(kodomoe2018年2月号掲載)

次は、

山崎ナオコーラさんロングインタビュー。完璧な親にはなれない、だって私だもん【後編】

お楽しみに♪

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