
上京して漫画家デビュー。「母の死がその後の僕の人生を動かす原動力になった」。宮川サトシさん×うつみさえさん対談【私たちの「看取り」・3】
『父の逝きざま 末期ガンの父を自宅で看取るまで』で父の看取りを描いたうつみさえさんが、「看取り」をテーマにした作品を発表している漫画家を迎えて語り合う短期連載。今回のゲストは、映画化もされた『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(新潮社)の作者・宮川サトシさんです。
お母さまを看取ってから10年以上が経った宮川さん。時間を重ね、当時は気づかなかった家族への思いや、自分の中で少しずつ変化してきた死への感覚について振り返ります。大切な人を亡くしたあと、その人への思いや家族との関係はどのように変わっていくのか。そして、身近な人の死は、残された人に何をもたらすのか。ふたりの経験からたどります。
母の遺骨を手放したくない、自分の中に残しておきたい、という気持ちが強かった
うつみ 父がまだ生きていたとき、宮川さんの『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』を読んだんです。読みながら「親が亡くなったら、自分はどんなふうに感じるんだろう?」って思っていました。
それからしばらくして父を看取って、宮川さんのそのときの気持ちは、お母さまへの愛情だったのかもしれないなって思いました。私が娘に同じように思ってもらったら、きっとすごくうれしいと思うんです。実際に宮川さんは、どんなふうに感じていたのでしょうか。
宮川 愛情もあったと思うんですけれど、それよりも、もっと反射的な気持ちだったと思います。「自分の目の前からなくなってしまうのがイヤだ」みたいな。その後、父も亡くなったんですが、父の遺骨を見ても同じことは思わなかったんです。父には父への愛情があるので、母とは何が違うのか、自分でもよくわからないんですけれど。
うつみ お母さまから生まれてきた自分が、今度はお母さまを自分の中に受け入れるような感覚もあったのかなと思いました。
宮川 たしかに、それはあったかもしれません。あの瞬間は遺骨をこのまま手放したくない、自分の中に残しておきたい、という気持ちがすごく強かったんですよね。

火葬を終えて遺骨となった母の姿を目にしたとき、その骨を食べたいと強く願った。作品のタイトルにもなっている場面。©宮川サトシ/新潮社
うつみ お母さまが亡くなってから10年ほどになるそうですが、今もお母さまの存在を感じることはありますか?
宮川 「感じる」ということすらないというか、自分の腕とか、皮膚みたいになっている感じです。自分の腕をいちいち「ある」と意識しないけれど、それと同じで、自分と一体化しているような。
うつみ お母さまが、自分の中にいるということ?
宮川 例えば、ドラマや映画で「こんなとき、母さんならなんて言うかな」みたいなシーンがありますけれど、僕はそれもなくて。自分と母の考えが直接つながっているような感覚なんですよね。歌の歌詞なんかでも「心の中にいつまでも生きている」とか、昔は「嘘やん!」って思っていたんですが(笑)、今は「いや、これって本当なんだな」って思っています。
うつみ わかるような気がします。父と私は、生きているときは完全に別々の個だったけれど、今はなんだか私の一部になっているような感じがしているんです。父と会えないことはつらいけれど、さみしくもないというか。
『父の逝きざま』を読んでくださった読者の方に「すごく素敵なお父さんだったんですね」と言われたことがあったんですが、ちょっとだけ居心地が悪いんですよ。父は聖人君子なんかではなかったから。父の母親の介護を私の母に任せっきりだったことは、いまだにどうなんだろうと思っているし、父は多趣味で収集癖があったものだから、あまりにもものが多すぎて遺品整理をしていたときには本気でイライラしてしまったし(笑)。

ここはうつみさんのお父さん目線になって読んでしまいました。僕も趣味で集めているものが大量にあるのですが、僕が死んだら、子どもたちはどう思うんだろう? 苦い顔で捨てられたりするのかな。想像するだけでつらいです(笑)。(宮川) ©うつみさえ/白泉社
感謝したり、腹が立ったり、本人が亡くなってからもいろんな気持ちが湧いてくるんです。なんだか今も生きているみたいだなって思います。
好きなものを選んで食べる。そんな日常の延長線上に「死」もある
うつみ 私は父を看取ったとき、「悲しい」よりも「無事に終わった」という気持ちがあったんです。苦しまないでスーッと逝ってくれたら、それで100点というか。人生の大きなゴールを迎える瞬間を見守っているような気持ちでした。

いつ終わるかわからないという長い時間を経て、今、本当に終わってしまうんだということが静かに伝わってくるシーンでした。「このまま無事に」と祈るような気持ち、わかります。私も、「苦しまないでいてくれたらそれでいい」という、見守るような気持ちで父を看取りました。(うつみ)©宮川サトシ/新潮社
宮川 わかります。僕も母を最後まで看取れたことは、今でも自分の中でひとつの自信になっているんです。昔から母に「人が亡くなる間際は、なかなか見られないんだよ」と聞かされていたんです。ずっと付き添っていても、こちらがちょっと横を向いた瞬間に、ふと逝ってしまうこともあるから、と。僕は、本当に最期の瞬間まで母のそばにいられた。亡くなった直後はさみしさもあったけれど、なんとなく達成感もあって。
僕、うつみさんの作品で好きだった場面が、お父さんがもうすぐ亡くなりそうというときにフライドチキンを食べるところなんです。

こんなときだからと言って遠慮して食べたいものを我慢するわけじゃなくて、食べたいものを食べている感じがいいなと思いました。自宅の看取りならではですよね。(宮川)©うつみさえ/白泉社
うつみ 「あんなときにフライドチキンなんて食べないだろう」って、ちくりと言われたことはありましたが……。「今夜も起きていなきゃいけないから、お肉を食べて精をつけなきゃ」くらいの気持ちだったんですけれど。
宮川 でも、あの感じがすごくわかる気がして。僕は母親が亡くなった日の夜、食事を買いにコンビニに行ったんです。カップ麺で簡単に済ませようと思って、最初は普通のやつを手に取ったんです。でも、その隣にあったチーズがたっぷりのった、ちょっと豪華なやつがものすごくおいしそうで、そっちを選んだんです。
こういうときって、普通は悲しくて食欲がないとか、白湯だけ飲むとか、そういうイメージがありますよね。でも、実際の僕は、母親が亡くなった日にも、ちゃんとおいしそうなほうを選んで食べようとしている。「人って、こんなときでも食べたいものを食べるんだな」って、なんだか面白かったんです。
うつみ ちなみに、私はビスケットにメープルシロップをかけている瞬間に父が亡くなったんです……。
宮川 その感じこそが自宅で看取るということなんでしょうね。死が日常から切り離されているのではなく、日常の中に死がある。死ぬって、もっと日々の延長線上にあることなんだと思いました。
「それ、あるあるだよ!」みたいな、「がん友」としての励ましができた
うつみ 宮川さんは若い頃に大きな病気をされたそうですね。その経験は、お母さまの闘病を支えるときに影響しましたか?
宮川 妻に「あの頃、僕とお袋の関係は、どんなふうに見えていた?」と聞いたら、「『がん友』みたいだった」って言われたことがありました。僕は20代で白血病になって寛解したんですが、がん経験者だからこその励ましができていたのかなと思います。「俺みたいなレアな病気でも治ったんだから、お袋も絶対に良くなるよ」とか。母も僕には病院の付き添いを頼みやすかったり、日々の体調のことなんかも言いやすかったんじゃないかなと思います。
うつみ 病気や抗がん剤のつらさは、実際に経験しないと本当のところはわからないですしね。
宮川 共感できちゃうんですよね。薬の影響で急に吐き気が襲ってくるとか、「それ、あるあるだよ!」みたいな(笑)。自分が闘病していたときは相当つらかったんですが、母が弱っているときに同じ目線に立てたから、病気も意外と悪い経験じゃなかったのかもしれないなと思えました。
うつみ お母さまにとって、宮川さんは心強い先輩だったんですね。
宮川 そうそう、がん友の先輩。僕は男ばかりの三人きょうだいなんですが、母は女の子もほしかったそうなんです。だからなのか、末っ子の僕には女の子を育てるような気持ちで接していたみたいで。「上のふたりの飲みかけのジュースは飲めないけど、あんたのは飲める」って言ったことがありました。僕はそれを聞いて「しめた!」と思ったんです。それなら介護でトイレの付き添いなんかもやりやすいぞ、と。
うつみ たしかに、異性の親の介護は「ここまでやっていいのかな」という抵抗を感じることもありますよね。お母さまの病気がわかってから、介護や日々の対応についてはご家族の中で役割分担を決めたのでしょうか?
宮川 特に話し合いはしなくて、時間のある人がやるという感じでした。僕はわりと時間の融通がきいたので、その流れで病院関係は僕が担当するようになりました。
でも、正直、しんどいときもあったんです。お医者さんから病状についての話を聞くとき、母は緊張してしまって先生の話が抜けてしまうから、僕がいつも同席してスマホに記録していたんです。ガンが進行するにつれて、聞かされる話もだんだん厳しいものになっていって。「薬が効いていない」「ガンが大きくなっている」「余命はこれくらい」といった話をすべてひとりで書き留めながら、「次はどんなにひどいことを言われるんだろう」とびくびくしながら聞くことは、本当にきつくて。
ちょうどその頃、真ん中の兄から電話がかかってきて、観たテレビ番組の話なんかをされたことがあったんです。その日は病院で厳しい話を聞いた直後だったので、「今日、お医者さんにこんなことを言われて」と話したら、「なんだ、そんなことか」みたいに返されて。さすがにそのときは怒ってしまいました。
うつみ 「病院のことをこんなにやっているのに、頑張りを誰もわかってくれない」という気持ちもあったのかもしれませんね。
宮川 母の闘病中、僕は家族に対して腹を立てていたような気がします。僕以外のみんなが何も起きていないみたいな振る舞いをするし、「病気になってしまったのは、しょうがないことだ」みたいな感じで。「なんでみんなこんなに鈍感なんだろう、もっとうろたえろよ」って思うこともありました。
一周忌で父が母を「いい女やった」と。はじめて聞いたよって(笑)
宮川 振り返ってみると、僕も母のことに気持ちが集中しすぎて、父や兄たちの気持ちを考える余裕なんてなかったんですよね。というのも、母が亡くなってから父がすごく落ち込んで、一時期はお酒におぼれるようになってしまったんです。
父は、もともとは「死なんて誰にでも訪れるものだ」みたいなことを言う人だったんですが、こんなにダメージを受けるんだって驚きました。僕も母が死んでかなり落ち込んだけれど、自分の落ち込みなんてまだまだだって思えるくらい、父はショックを受けていて。
うつみ お父さまがお母さまの闘病中に何も言わなかったのは、もしかしたら、事実を受け入れることができなかったのかもしれませんよね。亡くなって、そこではじめて抑えていた感情があふれて。
宮川 母が生きていた頃、父は自分のことをあまり話さないタイプだったんですが、「今日、お母さんの夢を見てな」なんて、ぽつりぽつりと話してくるようになったんです。どんな夢だったのかと聞くと、「壁から大きいお母さんの顔がニューッと出てくるんや」と言うんです。「親父って、こんなにファンタジーな夢を見る人だったんだ!」って、驚きました。よく知っていたはずの人が、僕の知らなかった一面を見せるのが興味深くて、新鮮で。
うつみ 私、子どもの頃、母に「お父さんと結婚して良かったと思う?」と聞いたことがあったんです。「なんとなくこの人でええかと思って結婚して、子どもが生まれたら楽しいし、まあ、良かったのかなって思ってる」と言っていて、「ずいぶんあっさりしてるんだな」ってずっと思っていたんです。でも、父が亡くなってから実家を片付けているときに、母が結婚式で着たウエディングドレスが出てきて。
そうしたら、母が「私が死んだら、これを棺桶に入れて一緒に燃やして。あの世でまたお父さんのところにお嫁に行くわ」って言い出したんです。私、「え、そんなロマンチックな夫婦じゃなかったやん!」って、びっくりしちゃったんですけれど(笑)。
宮川 うちも母の一周忌のとき、父が母のことを「いい女やった」って言ってたんですが、「ホントに!? はじめて聞いたよ」って(笑)。
うつみ 長年連れ添った夫婦って、面白いものですね。一緒にいるときには言葉にしなかった気持ちが、相手が亡くなってから、はじめて出てくることもあるのかもしれないですね。
親の死が、私たちに残してくれたもの
うつみ お母さまが亡くなって、真ん中のお兄さまがお母さまの形見の腕時計をしている場面がありましたね。すごく印象的でした。

お兄さまがお母さまの腕時計をしている場面、本当に好きなんです。お兄さまなりの愛情の表現なんだろうなと思いました。(うつみ)©宮川サトシ/新潮社
宮川 真ん中の兄は壊れた腕時計をずっと着けていたんです。「兄ちゃんもさびしかったの? 早く言ってよ~!」って思いました。
いちばん上の兄については『名前のない病気』にも描いたのですが、母がすっかり弱っているのを間近にしても、何事もなかったように過ごしていて。だけど、両親がいなくなって、実家にひとりになった兄に「さびしくないの?」と聞いたら、「さびしいと思っとるよ」と。ずっと何を考えているのかわからなかったけれど、実は自分と同じ気持ちだったんだなと、はじめて知りました。
それと、母が亡くなったあと、真ん中の兄が「家のことは俺がやるから、お前は東京に行ってやりたいことをやれ」と言って、その後のことをすべて引き受けてくれたんです。母の闘病中、僕がひとりで抱えていたことを兄は兄でわかってくれていたんだろうなって、今になって思います。

「写真くれなかった」と言って泣いてしまうところ。「これ、めっちゃわかる!」と思いました。僕も同じような経験をしているんです。遺影がふたつあって、1つはもらおうとしたら、兄に「ダメ」って言われたんですよ。生きているときは母の写真なんて欲しくなかったのに、急に価値のあるものになってしまうというか。(宮川)©うつみさえ/白泉社
うつみ お父さまも、お兄さまたちも、気持ちの表し方がそれぞれ違っていただけなんですね。
宮川 身近な人の死って、ものすごいパワーがありますよね。残された家族の、それまで見えなかった部分が表に一気に噴き出してくるようなところがある。
僕自身もそうです。母親が亡くなる前までは、自分の人生を大きく動かそうなんて思っていなかったんです。それなのに、上京して、漫画を描くようになって。親の死って、お金では買えない大きな原動力をくれるんだと実感しているし、死は悪いことばかりじゃないのかもしれないって思うんです。

亡くなって「もっとこうすればよかった」と振り返る場面がありましたが、後悔や悲しみを自分の中にとどめずにアウトプットしてみると、客観視できるようになる。そうして気持ちが解放されて、こんなふうに思えるようになったのかな、と。僕も母や兄のことを漫画にしたことは、人生が変わるぐらいのセラピーだったんです。漫画なんて誰もが描くものじゃないけれど、日記でもなんでもいいから、表に出してみるといいのかなと思います。(宮川)©うつみさえ/白泉社
うつみ 私も父の死で、死生観がすごく変わったんです。自分が死ぬことへの怖さも減ったような気がします。
宮川 僕も一時期はそうだったんですよ。親がこれだけのパワーを子どもに残して逝けるのなら、死って悪いことばかりじゃないんだな、と。
僕は子どもが2人いるんですが、子どもたちが成長していくのを見ているうちに、最近はまた少し気持ちが変わってきたんです。「この子たちと別れたくないな」と思うようになってきて、今は死ぬことが怖いフェーズにきています。

未来のお子さんに手紙を書く場面。宮川さんが手紙に書かれていたように、私も人生観が変わったし、死に対する怖さもなくなりました。(うつみ)©宮川サトシ/新潮社
うつみ 今までになかった怖さですね。
宮川 そうなんですよ。小さい子どもって、日に日にできることが増えていくから、「もっと続きを見たい」って思ってしまうんです。子どもが大きくなってからも、この思いは変わらないような気がします。
うつみ 私たちの親も、もしかしたら同じ気持ちだったかもしれませんね。
【最後にもう少し。お互いの作品で印象的だったページについて】

表紙に描かれているイラストの、コンセントのケーブルが気になりました。これ、描くのも面倒だし、絵としてはないほうが本当はすっきりするはずなんですが、描いてしまううつみさんの生真面目さが伝わってきました。それから、絶対に病院ではない感じとか、自宅の看取りならではの感じもあるな、と。(宮川)©うつみさえ/白泉社

「虚しくて寂しくて当たり前」というセリフ。生きていると、こんなに幸せなのにどうして悲しくなるときがあるんだろうと思うことがありますが、こんなふうにすべてがゼロになりながら、バランスを取っているのかもしれないと思いました。(うつみ)©宮川サトシ/新潮社
編集協力/菅原淳子
宮川サトシ
みやがわさとし/漫画家。1978年岐阜県出身。2013年「東京百鬼夜行」で漫画家デビュー。自伝エッセイ漫画『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(新潮社)は話題を呼び、2019年に映画化。引きこもりの実兄や家族問題を描いた『名前のない病気』(小学館)で「第1回スペリオールドキュメントコミック大賞」大賞受賞。『闘病「後」日記』(光文社)、『そのオムツ、俺が換えます』(講談社)のほか、原作を手掛けた『ワンオペJOKER』(講談社)、『宇宙戦艦ティラミス』(新潮社)など、作品多数。
X:@miyagawa_sato
『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(新装版)
宮川サトシ/作
新潮社
1100円
コドモエCOMICS
『父の逝きざま 末期ガンの父を自宅で看取るまで』
うつみさえ/作
白泉社
1430円

うつみさえ
1982年兵庫県生まれ。「第1回 kodomoe マママンガ賞」期待賞を受賞し、漫画家に。連載作品に「大きくなってく娘と私」、「マンガでわかる! おっかなびっくり飼育」、「40代ママのキレイをアップデート」、「令和JKをわかりたい!」。著作に『メイクもファッションも迷子になってない?40代からのキレイのつくりかた』(コドモエCOMICS)。
Instagram: @th.e.96135
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