2025年10月1日

ミュージシャン・俳優 古舘佑太郎さんロングインタビュー。サカナクション・山口さんの言葉で自分は常に恵まれた環境にいたことに気づけた【後編】

高校在学中に、同級生たちと組んだバンドで注目を集め、メジャーデビュー。今は俳優としても活躍する古舘佑太郎さん。kodomoe8月号では、父親の古舘伊知郎さんに「音楽の才能があるわけない」と言われ猛反発した思い出や、先輩であるサカナクションの山口一郎さんに「狭い幅でしか生きてこなかった」と言われ、半ば無理やり苦手な旅に出たエピソードなど、古舘さんを今の姿へ導いたお話を伺いました。
kodomoe webでは、貴重な本誌のロングインタビューを全編公開。後編では父から反対されながらも貫いていたバンド活動についてや、ひとりでアジアを回ったお話など盛りだくさんでお届けします!

ロングインタビュー前編「父から、大好きな野球のために大嫌いな勉強も頑張ってやらないとダメだと言われたのが効きました」はこちら

ふるたちゆうたろう/1991年東京生まれ。ミュージシャン、俳優。2008年にバンド「The SALOVERS」を結成し、ボーカル・ギターとして活動をスタート。2017年に新たなバンド「2」を結成。2024年に解散。2014年映画『日々ロック』で俳優デビュー。NHK連続テレビ小説『ひよっこ』や、大河ドラマ『光る君へ』に出演し、注目を集める。

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バンドが早くに注目され
天狗になってしまった

――お父さまから反対されながらも貫いてきたバンド活動について聞かせてください。高校在学中の2008年に最初のバンドThe SALOVERSを結成し、早い段階で高い評価を受けていました。「音楽で食べていきたい」と思うようになったのはいつ頃からだったんでしょう?

僕ら、ちょっと特殊なんですよ。中学3年生のときに幼なじみでバンドを組んで、高校1年生からオリジナル曲を作り始めました。僕らが通っていた男子校では、高3の文化祭でかっこよかったバンド1組だけが後夜祭でライブをやれるっていう決まりがあって。僕が高1のときに別れた初恋の女の子が、後夜祭の実行委員長だった先輩と付き合っちゃったんですね。僕らが高3になるときには先輩はもういないけど、頑張ってかっこいいバンドになって彼らが企画してるステージでメインを張れたら、その子がまた振り向いてくれるんじゃないか……って、それだけを目標にしてました。だから、仕事になるなんてまったく思ってなかった。

高2の文化祭では小さなステージでライブをやって、見に来ていたレーベルからスカウトされました。本当に青臭いですけど「これだけ早く声をかけてもらえるってことは、俺たちってすごいんじゃない?」って、天狗になっちゃってました。

――10代ではそうなるのも当然だと思います。

「これで食っていくぞ」って覚悟がまだできていない段階で、音楽業界に入ってしまい、そのままあれよあれよと進んでいって、20歳ぐらいでメジャーデビューしました。でも筋肉もスタミナも精神力もない状態で始まってしまったから、うまくいかなくて。若くても成功する人たちはいるんで他責にするつもりはないですけど、僕たちはそういうスーパースターにはなれなかった。自分たちの弱さを痛感して、23歳で解散しました。そのときは「すべて終わった」「自分はこういう世界ではもう生きていけないだろう」って気持ちでしたね。早くから仕事をしていて貯金だけはあったので、2年間はふらふらとフリーターみたいな生活をしてました。

――解散後、2014年頃から俳優業を始め、さらに2017年には新たなバンド「2」(ツー/その後、THE 2に改名)を結成されます。

デビューが早すぎて、ライブハウスで切磋琢磨した仲間やライバルがほとんどいなかったんですけど、25歳ぐらいからそういう存在がちょっとずつ出てきたんです。後からデビューした同世代や「The SALOVERS聴いてました」っていう年下の子たちが活躍していくさまを横目で見ているうちに、「自分が作ってきた音楽は無意味だと思っていたけど、こうやって次の世代に伝わってるんだ」って感じられたんですよね。同時に「自分はこのままでいいのかな。1回の失敗で全部が終わったと思い込んで逃げたままって、どうなんだろう?」と。それでもう1度バンドを組むことになり、そのタイミングには「これを仕事としてやっていくんだ」って覚悟ができてました。

――ただ、「2」での活動中は「多くの人から共感を得なければならない」と思い込んで自縄自縛に陥っていた、と『カトマンズに飛ばされて』に書かれていました。なぜそうなってしまったのでしょう?

それはまさに今の話とつながっていて。The SALOVERSのときは、自分たちの部屋にメンバーで集まって鳴らしてる音楽がかっこよければ良くて、それが最強だと無邪気に思ってました。要は根拠のない自信にあふれていたんですよね。そのまま世に出て、伝わる人には伝わってうれしかったけど、それだけじゃ食っていけないことがわかった。バンドを続けていくためには、自分たちだけの狭い部屋にこもっていてはダメなんだと痛感しました。だから「次はバンドメンバーに寂しい思いをしてほしくない」「関わってくれるスタッフをはじめ、みんなの期待に応えなきゃ」って気持ちを強く持っていたんです。それが強迫観念のようになってしまって、「何かを大きく変えなければ。そのためには自分が自分じゃなくなったっていい」とまで思い込んでしまっていました。

――それは極端な転向ですね。

やっぱり僕は考え方が「0か100か」なんでしょうね。正直、The SALOVERSの音楽は同世代や後輩ミュージシャン、自分が大好きだった先輩ミュージシャンたちからも愛してもらえました。だけど一方で音楽って、普段は全然音楽に興味ない人が田んぼの畦道で自転車をこぎながらふとイヤフォンから流れてきた曲を耳にした瞬間、自分の中でブワッと何かが変わって主人公になったような気持ちになれるものだと思うんです。僕がやってきた音楽は、そういうことはできていなかった気がした。「じゃあ僕に足りないのは数字だ。つまり、より多くの人から愛されることだ」って思っちゃったんですよね。「それさえ手にできたら、僕のこの苦しみはなくなるはずだ」と。

それまで応援してくれていたファンの人たちにも相当寂しい思いをさせたと思います。僕を信じて応援してくれていたのに、そういう人たちをある意味無視して、そこに僕自身の“本当” がないようなことを発言としても音楽でもやるようになっちゃったから。それぐらい自分を魔改造してました。

――それだけ新しい理想を追い求めたTHE 2も、2024年に解散します。

バンドメンバーのみんなは、僕が「売れなきゃ売れなきゃ」って強迫観念を抱いているのを理解して、自分たちの技術を全部注ぎ込んで付き合ってくれました。だけどやっぱり、年齢の問題が出てきた。みんな30歳を超えて、気持ちの部分では通じ合えていてもライフスタイルの変化があって現実的な壁に直面したんですよね。このメンバーで売れるために全力でやりたいけど現実的には難しくなり、話し合って解散を選びました。

――2度目の解散は心労が大きかったことと思います。

今回の旅をしている間に気づいたんです。「強迫観念だけで走ってきていて、心からあふれるエネルギーはもうなかったんだ」と。

――活動中は無理をしている感覚はなかったんですか?

本当にバンドがやりたかったから「自分がいちばんしんどくてもそれが当然だ」という気持ちでしたね。でも、10円ハゲができていたので、無理していたんだと思いますけど。

恵まれた環境にいたと
やっと気づけた

――そして解散後、かねてより親交の深いサカナクションの山口一郎さんに「カトマンズに行け」と命じられます。その際に「おまえは東京出身のぼっちゃんだ。大きい成功も失敗も経験していない。つまり、狭い幅でしか生きてこなかったんだ」と言われたそうですが、古舘さん自身もそうした自己認識だったのでしょうか。

言われたとき、「大きい成功がない」ってところにはめっちゃうなずきつつ、「いや、悲しいかな失敗はめっちゃあるけどな」と思いました。野球で例えると、2つ目のバンドを解散する前から僕の中では“3打席ノーヒット” の感覚があったんですよ。普通は1回打席に立たせてもらうのもなかなか難しいのに、僕はいろんな人から応援されてチャンスをもらって、The SALOVERS・役者業・THE 2と、3回も立つことができた。それなのにヒットさえ打てていなくて、ずっと人の期待を裏切っているような気がしていたんです。開き直って「売れる売れる詐欺です」って自分で言っちゃうぐらい。だから「大きい失敗をしてない」ってところは正直ちょっとピンときてなかった。でもカトマンズまでの旅の間に色々と考えて、一郎さんはそういうことを伝えたかったわけではなかったんだろうと、今はわかります。

――もう少し人間的な部分の話ということでしょうか。

僕自身の中では「失敗だ」と思っていたけど、考えてみたらThe SALOVERSが解散しても2年間フリーターができて俳優業もできて、その後にまたバンドを組めるなんてそもそも絶望じゃないよな、って。僕は常に恵まれた環境にいたんだと思います。メジャーレーベルや事務所があって常に誰かがそばにいてくれて、その人たちに意見を聞ける、ある意味では甘えられる立場だったから。高校2年生以降、ずっとそういう状態で過ごしてきました。

でも一郎さんが言う「大きな失敗」は多分、ひとりで自分と向き合わなきゃもう何もできないレベルの状態を指しているんだろうし、逆もしかりだと思うんですよね。一郎さんはそれを伝えたかったのかなと思います。そこからひとりぼっちで海外に行って……。まぁ「俺が金を出すから行け」って言われて行った旅ですけど、きっかけは誰かが敷いたレールとはいえ、行ったら結局ひとりだから。

――ひとりで悪戦苦闘しながらアジア10か国を回られてますもんね。

そうなんですよ。その過程を経て、ようやくカトマンズに着いたときの興奮はすごかったです。そのときに思ったんですよね。情けない理由ばっかりでここまで来たけど、この場所まで自分を連れてきてくれたのは間違いなく自分自身だ、って。過呼吸になったり蕁麻疹が出たりぼったくられたり、ひとりぼっちで地獄の状態を味わったからこそ強くなれた。そういう意味で、それまで僕の中で「大きい成功」「大きい失敗」と考えていたことは、すごく守られた環境での出来事だったんだなと気づきました。

――ご著書を拝読して、この旅は古舘さんにとって「過去でも未来でもなく、今この瞬間を生きている自分をどうやって見出して認めるか」という挑戦だったんだと感じました。それはどんな職業やライフスタイルであれ、毎日忙しく働いて生活していると見失いがちなものだな、と。

そうですね。それまでの僕は過去と未来ばっかり見ていて、“今” が消滅していました。過去のことを引きずって「あのときあんなことをしちゃったから今こうなってるんだ」って思ったり、未来について自分でちっぽけな算段を組んでその通りにいかないとイライラしたり。でも旅の間は本当にその瞬間、まさに“今” のことを常に考えざるを得ないんです。そしてそれを日記に刻むことで「今の僕はこういう気持ちだったんだ」ってわかる。そういうふうに“今” だけに向き合っていると過去から解放されるし未来に怯えなくてもよくなって、不思議と“本当の自分” みたいなものが出てきました。もちろんそれはいいところだけじゃないから、自分の嫌なところもいっぱい見た。でもその連続の先でとんでもない景色の場所に辿り着いて、ひとりでそれを見ていると「こんなどうしようもないやつ、せめて自分ぐらいは好きになろう。どうせこいつとは一生離れられないんだから、受け入れてあげよう」って思えました。

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「今まで全く興味なんてなかったのに、旅がきっかけでアクセサリーを身に着ける習慣ができました。いくつになっても好きなものとか興味って変わっていくのかも」

父親のすごさを
理解したからこそ書けた歌詞

――旅の最中にこれまでのバンド活動やかつての恋人を思い出す場面はあっても、ご家族に思いを馳せる場面は書かれていなかったですよね。あまり頭をよぎらなかったんでしょうか?

そう言われてみると、あんまりなかったですね。あっ、1回だけありました。共同宿で過ごした夜に、隣のベッドで咳をしている女性がいて、幼い頃に姉が風邪を引いて隣の部屋から咳が聞こえてきたときのことを思い出しました。咳の音がすごく似てたんです。「咳って世界共通なんだ」と思いました。でもその程度ですね。関係が希薄だから思い出さなかったんじゃなくて、むしろ仲がいいからかもしれません。家族内でトラブルがあったり、関係性のこじれている相手がいたりしたら、その混乱について遠い地で思いを巡らせたかもしれないですけど、僕はそれがなかったから。

――いい関係なんですね。2017年に出した「2」のアルバム『VIRGIN』には「Family」という曲が収録されています。家族への慈しみにあふれた素敵な曲ですが、当時のインタビューでは「昔の自分だったら書けなかった」とおっしゃっていました。

「2」を結成した頃には父親との関係性がだいぶ良くなっていたんです。父親が『報道ステーション』を辞めて、年齢的にも丸くなってきて。The SALOVERSの
ときとはまた違う表現で音楽をやっていこうとする中で、自分は何が歌えるんだろう?って考えたときに「家族については歌ったことがなかったな」と気づいたんですよね。ちょうど上の姉が妊娠中だったのかな。下の姉も「子どもがほしい」と言っていて、その願掛けも込めて「新たな命がどちらにも生まれたとしたら 僕たちのように仲良しこよしで そこら中遊んではいっぱい喧嘩もするだろう」って歌詞を書きました。僕自身もだいぶ大人になって、母親への愛情の示し方や父親のすごさをわかるようになっていたので、自然とそういうものが書けました。

――今もお姉さんたちとは仲がいいんですか?

母親を交えて姉たちと一緒にメシ食うことはしょっちゅうあるし、それぞれに息子がふたりずついて、甥っ子たちと接する機会は多いですね。僕は末っ子で親戚の中でもずっといちばん年下だったんで、子どもとの接し方がわからなくて苦手だったんです。でもいとこに子どもが生まれたあたりから、自分でも引くほどの子ども好きになりました(笑)。現場で子役がいるとずっとしゃべって遊んで。そんな中で甥っ子が生まれたので、もう嬉しくて嬉しくて。

――溺愛ですか。

もう、本当に。いちばん上の甥っ子は6歳になって、最近携帯を買ってもらったらしいんですよ。僕のスマホに知らない番号から2回着信があって、こわごわ折り返してみたら甥っ子で。そこからメールするようになりました。「ゆうちゃん、僕、かわいい?」とか「おやすみ」とか送られてきます。ちょっともう、たまらないですね……! うざがられないように、気をつけています(笑)。

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INFORMATION

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『カトマンズに飛ばされて
旅嫌いな僕のアジア10カ国激闘日記』
古舘佑太郎/著 幻冬舎 1980円
バンドを解散した古舘さん。自分自身も未来も見えなくなる中、サカナクションの山口一郎さんに「カトマンズに行け!」と命じられ、追い出されるようにアジア放浪へ……。

インタビュー/斎藤 岬 撮影/上澤友香 スタイリング/藤井希恵 ヘアメイク/川島享子(kodomoe2025年8月号掲載)

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