2024年11月6日

翻訳家・エッセイスト 村井理子さんロングインタビュー。自分の子育てと母を重ね合わせてどんな人生だったか想像する【最新号からちょっと見せ】

双子の息子、急死してしまった兄、そして認知症の義母についてのエッセイを次々に発表し、私たちに「家族」のあり方について考えるヒントをくれる翻訳家・エッセイストの村井理子さん。kodomoe12月号では、「とにかく大変だった」と語る育児、過去に壮絶なやりとりがあった義母の介護についてお話を伺いました。本誌での貴重なインタビューから、kodomoe webでは一部をご紹介します。

むらいりこ/1970年、静岡県生まれ。翻訳家、エッセイスト。滋賀県の琵琶湖畔に夫と双子の息子と暮らす。肉や野菜を天板に詰めて焼くレシピを紹介した『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』が大ヒット。著書に突然死した兄の後始末の記録『兄の終い』や、失われた家族を描いた『家族』など多数。最新刊は認知症の義母と90歳の義父のケアに奔走する介護奮闘記『義父母の介護』。

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育児中は自分と母の人生を重ね合わせる日々

――ご自身が育ったご家庭や双子の息子さんの子育てについて、そして義父母の介護についてと、さまざまな角度から“家族”にまつわるエッセイを書いていらっしゃいます。ことに、関係の途絶えていたお兄さんが突然亡くなられた後の顚末(てんまつ)を書いた『兄の終(しま)い』や、幼い頃の家族の様子をつづった『家族』は大きな話題を呼びました。拝読して、問題を起こしがちだったお兄さんがお父さんからいつも厳しく叱られ、それをお母さんがかばい……という構図の中で、村井さんは賢くて手のかからない子として振る舞っていた印象を受けました。

記憶の中に強く残っているのが、レストランに行ったときのことなんですよね。行くたびに、兄は注文を決めるのにびっくりするくらい時間がかかっていたんですよ。店頭の食品サンプルをずっと見ていて、なかなか決まらない。それに父がいらついて母が焦るという繰り返しで。だから私は問題を起こさないように、とにかくすぐメニューを決めてました。叱られるのは兄だけで済むようにって姑息(こそく)なところもあったでしょうね。食べたいものを選ぶんじゃなくて、お子様ランチとか親と同じものとか、早く決めること優先で選んでました。その癖は今でも残っています。

――村井さんは厳しく怒られたことは?

私、親に怒られた記憶が本当になくて。パシンと軽く叩かれたことすら1回もなかったと思います。むしろ、すごい褒められてました。むやみやたらに、根拠なしに。だから小学校のときなんて、勘違いしてましたもん。「これだけママが褒めてくれるんだから、私は本当にすごい子なんだ」って。母が洋服をたくさん買ってくれたんですよ。買った服を着せては母が「まぁかわいい。外を歩くときは本当に気をつけて」みたいなことを言うから、真に受けて「うん」って言ってました(笑)。

――自己肯定感が育ちそうですね。

月に1回ぐらいはちょっと遠くの街まで行って買い物をして、そのたびに当時は珍しかったロッテリアにも必ず連れて行ってくれて。そんなふうに良い思いばっかりしていたから、同じ家庭に育った兄となぜこんなにくっきり道が分かれたのか、今でも不思議です。兄は高校をすぐに辞めてしまった一方で、私は中高一貫の私立の女子校に行って留学して、大学にも行かせてもらって。

自分が親になってから、うちの親ってめちゃくちゃシビアな子育てをしていたんだなと思いました。兄については相当悩んだでしょうね。色々ありましたもん、私の記憶にある中だけでも。マントをつけて2階の屋根から飛び降りたり、とにかくハイテンションで、学校でも全然座っていられない。診断はついていなかったけど、おそらく多動の傾向があったんだと思います。母が「また学校に呼ばれた」と言って泣いていたのを覚えています。あの時代に厳しい子育てを強いられて、かわいそうだったなと思う。兄も大人からげんこつをもらってばかりで、今考えるとやっぱりかわいそうでした。多分私は、そんな中で両親が無理して平坦な道のほうに押し出してくれた子なんですよ。そして兄は取りこぼされてしまった。

――40年くらい前ですから、今とはまるで違いますよね。学校も管理教育の時代ですし。

本当に、時代が違えばもうちょっとよかっただろうなと思います。当時は支援なんて少なかったですからね。先日、児童相談所の勉強会に呼ばれたんですよ。『兄の終い』に出てきた児童相談所の方が登壇する会だったので、てっきり兄のことを語らせられるのかと思ったらそうじゃなくて、私も含めた話だったんです。相談所の方は私のことを「支援の行き届かなかった子」として見てるんですよね。そこでびっくりしちゃって。「そうか、外からは私もそう見えるんだ」と初めて知りました。聞いてみたら「僕らの目から見たら、介入すべきご家庭だったかもしれませんね。兄妹が相互にきょうだい児だったケースだと思う」って言われましたね。たしかに、私は先天性の心疾患で子どもの頃に入院生活が長くて、兄はその間たらい回しでした。一方で、おそらく発達障害を持つ兄のきょうだい児でもあるわけで。

――あぁ、たしかに。

それは最近の大発見でした。私はどちらかというと「兄が不幸なものを拾って、私はラッキーで逃げ切った」ってイメージがあったんですよ。でも決してそうではなかったのかなって。「助けを必要とする家庭の子は、自分を殺して妙に良い子になるか、自分をさらけ出して妙にはしゃぐ子になるパターンがある」という話を聞かされたんです。それによってバランスを保とうとする。まさに私と兄ちゃんか?と思いましたね。

――先ほどおっしゃっていたレストランのエピソードなんて、まさにそうですよね。ご自身では、ある面においては自分が親からのケアが足りない状態で育ったという感覚はあったんでしょうか。

あんまりなかったんですけど、『兄の終い』を書いたあたりから「よくよく考えてみるとそうだよな」とは思ってますね。親はたしかにあんまり家にいなかったので。でも父と母も相当苦労していただろうから、ふたりの落ち度だということになったらちょっとかわいそうかなとは感じています。港町だからお酒が身近で、大人はみんな飲んだくれみたいな感じなんですよ。うちの父と母もお酒に人生をかなり変えられてしまったところがある気がします。それも祖父や母のお店がお酒を扱っていたから仕方ないし、飲んでいたら楽しいから家の問題を忘れていられたのかもしれないですね。

――『家族』の結びでも「毒親の一言で片付けようとは思わない」と書かれていました。今18歳になる双子の息子さんがいらっしゃいますが、子育てを通じてご両親に対する見方が変わった部分もあるのでしょうか。

完全に変わりました。特に私は母親に対して辛辣だったので、悪かったなと今は思います。私が18歳のときに父が亡くなったんですが、その頃の母はちょうど今の私ぐらいの年齢で。その年でいきなりシングルマザーになって、これからこの子を大学出そうというときに兄もいて、ちょっと絶望しただろうな、と。

父が亡くなってすぐに母は男性と付き合い出したんですよ。私は当時嫌だったんですけど、でもそれも逃避だったんだろうなと、今となったら気持ちはわかりますよね。自分が子育てをしていて起きることの1個1個が、当時の母を思い出すことにつながっています。頻繁に重ね合わせて「どんな人生だったんだろう」と想像しています。

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逃げられないのは苦しいお金は女性にとって助け

――双子となると、村井さんとお兄さんのような年齢差のあるきょうだいと関係性は違いますか?

双子って完全にニコイチなんですよ。変な言い方ですけど、きょうだいのどちらかを“売る”ようなことは絶対にしない。何かあってもお互いにかばい合うから、“親VS.双子”の構図になるんです。親からすると超えられないような特別な結び付きがあって、それが面白い。うちの双子は今まで喧嘩したことないんですよ。

――それはすごい!

小さい頃に取っ組み合いみたいな動物的な戦いはありましたけど、物心ついてからは一度もない。本当に仲が良くて、お互いに服をプレゼントしあったりしてます。この関係はきっと生涯崩れないだろうなと見ていてわかるので、安心ですね。育児はめちゃくちゃ大変なんですけど……。

――そこはやっぱり、そうですよね。

今、街中で双子を連れたお母さんを見ると「頑張りすぎないで、どうぞご無事でいてください」って拝みたくなりますよ。育児にかかる作業量が単純に2倍じゃなくて3倍ぐらいになって、それをずっと同時にやらなきゃいけないのが大変で大変で。

出産前に「母乳だとお母さんの体がもたないから、ミルクにしなさい」と言われて哺乳瓶を2本買っていたんです。でも入院中に看護師さんから「10本買ったほうがいいよ。2本じゃ間に合わないから」と言われて「え?」ってなって。やってみたら、その通りでした。洗っているヒマがないし、2本ずつ倍々で増えていくんです。寝るときも、看護師さんやお医者さんは「ふたり一緒のリズムで寝かせなさい」って言うんだけど到底無理。全然寝ないし、寝たと思ったら片方が起きてくるし。

――遠方の実家のお母様の手は借りられず、旦那さんは手伝ってはくれるけれど、基本的に「育児は母親がやること」という考えで仕事漬けで……と、乳幼児期のワンオペのつらさを『ふたご母戦記』で書かれていました。その時期に、旦那さんから飲み会の写真が届いて、限界を迎えた村井さんがバイクに粉ミルク2缶をぶちまけるエピソードが強烈でした。

今でもそうなんですけど、うちの夫ってめちゃくちゃ天然で鈍いんですよ。夫に限らず、今の50代の男性はあんまり育児に関わってない人が多いですよね。今30代ぐらいのお父さんはすごいじゃないですか。当たり前に動けていて。本当にこの20年ぐらいで時代は良い方向に変わったと思いますよ。だってうちの夫、双子が2階でワーワー泣いているときに「うるさいから」って1階でテレビを見てましたもん。

 ――うわぁ。

だから今、私にいろんな面で仕返しされてます(笑)。やっぱりそういうことって絶対に忘れないですよね。

――しかも村井さんは並行してお仕事もされていたわけですよね。出産直後から病室で原稿を書いていたそうで。

看護師さんが嫌な顔をしてましたね。パソコンを持ち込む嫌な女が来たと思ったらいきなり破水しやがって、みたいな(笑)。それですぐ転院して帝王切開して、出産したことを知らない編集者から翌日に「進捗どうですか」って連絡が来たので、書きかけの原稿を仕上げて送ってました。

 ――それは出産によって仕事を失いたくないという焦りから来ていたのでしょうか。

その通りです。翻訳の仕事というのは本当に受け身で、基本的に受注するのを待つしかない状態なんですよね。私は18年前なんてまったく仕事がなくて、書籍は1年に1冊あればいいほうでした。それも海外の写真集のキャプションを訳したりで、自分の訳本は2〜3冊ぐらいしかなかったんじゃないかな。とても“翻訳家”と名刺に印刷できるほどではなくて、収入が100万円を切るような状況が結構長く続いていました。だから焦りがあった。それに、双子を育ててみたらあまりにも大変で、どうしたってベッタリになっちゃうんですよね。「これは保育園に預けないとダメだ」というのもあって、すぐ仕事に復帰しました。働いていないと預けられないから。

 ――保育園に預けて、多少は自分のペースを取り戻せましたか?

もちろん、もちろん。その間だけでも寝れますからね。でもうちはややこしいことに、そういうときに限って義理の父と母が来るんですよ……。

 ――『義父母の介護』の中心人物である、強烈なおふたりですね。

「17時まで預けてる」って言ってあるのに、14時に来るんですよ。それも月〜金で! 孫会いたさに気が急くんでしょうね。こっちは寝られないじゃないですか。私のためを思って手伝いに来てくれているのはわかるし、双子がいるときは遊んでくれて助かったには助かったけど、いくらなんでも来すぎでした。助けてもらったのは事実だけど、やっぱり嫌でしたね。

その後、義父母はお店を始めてピタッと来なくなったんですよ。めちゃくちゃ嬉しかったなぁ。双子もその頃には小学校に上がって、自分たちで学校に行って帰ってくるようになって。そこから仕事に本腰を入れるようになりました。作業時間が増えて翻訳を請け負う量も多くなると同時に、いろんなことが動き始めたんですよね。特に家で作っているレシピをまとめた『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』を出版したのは大きかった。あれで主婦層が読む『オレンジページ』や『クロワッサン』のような雑誌から原稿依頼がドッと来て、それがきっかけでエッセイの仕事につながっていきました。翻訳本では『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』が大きかったかな。子どもの手が離れて自分がやりたいことをやれる時間が増えて、イコール自分でちゃんとお金を稼げるようになったのは大きな変化でした。

 ――それは金銭面で生活に余裕が生まれたという意味ですか?

それももちろんそうなんですけど、そもそも自分で稼ぐのって面白いですよね。やっぱり自分で稼いで好きなように使うって、生きていく上での喜びのひとつだと思います。そのお金でどうでもいいものを買うんですけど(笑)、それも楽しいんですよ。

 ――村井さんのネットショッピング列伝、好きです。生活必需品だけ買っていると味気ないというか、どうでもいいものを好きに買えること自体が自由さの表れである気はします。

そうそう。私はいつも言うんですけど、お金は女性にとって大きな助けになるんですよ。いくつになっても自分で稼げるのはすごく重要。結婚生活で何かあっても、100万円、200万円あれば子どもを連れてパッと動けますよね。逃げられない状態がいちばん苦しいじゃないですか。そういう状況を作っておくのは大事だなと思います。

 ――「経済力がないから離婚できない」という女性の悩みはよく耳にします。先立つものがなければ逃げることも難しくなってしまう。

手に職をつけておくとやっぱりいいなというのは、子育てしながらひしひしと感じてました。それに、育児でも家事でも、お金で買える解決策って結構あるんですよね。いろんなことをアウトソースできるじゃないですか。保育園もそうだし、シッターさんを頼むのも買い物を通販にするのもそう。そういうところにお金をかけられたのは、楽になったポイントではありました。

 ――時間を買う感覚ですね。

そうなんですよ。設備投資すると楽になるんです。これは翻訳の仕事でもそう。本はもちろん、辞書もインストール型の高いものを複数買うし、大量のデータを扱うのでパソコンなんて“買える実力”って言われていて、そこに翻訳家は結構お金をかけるんです。結果、それで仕事量をさらに増やせたから、やっぱり稼げるようになったのはよかったですね。

続きは、kodomoe12月号へ

INFORMATION

翻訳家・エッセイスト 村井理子さんロングインタビュー。自分の子育てと母を重ね合わせてどんな人生だったか想像する【最新号からちょっと見せ】の画像3

『義父母の介護』
村井理子/著 新潮社 924円

義母の認知症が8年前に始まり、義父も5年前に脳梗塞に。「介護は妻の義務なのか?」。介護の最初の一歩から、高齢者を騙す悪徳業者との闘いまで、超リアルな介護奮闘記。

インタビュー/斎藤 岬 撮影/森川恵里(kodomoe2024年12月号掲載)

kodomoe12月号では、「子に尽くすことは必ずしもいい結果を招かない」「義母の介護は怒りからのシスターフッドである」など、インタビューはまだまだ続きます。

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