2021年8月23日

アルコ&ピース・平子祐希さんロングインタビュー。「不登校にはならなかった。親が心配するかなあと思って」【前編】

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お笑いコンビ、アルコ&ピースのボケ担当として活躍する、平子祐希さん。kodomoe2021年4月号では、内向的でいじめられっ子だったという学生時代、寅さんに憧れてお笑いを目指した青年時代、そして愛妻家であり、二人の子どものパパとして日々楽しく暮らす現在――。平子さんの人生についてお伺いしました。
kodomoe webでは、ロングインタビュー全編を公開! 前編では、両親やきょうだいについてや学生時代のお話、そして相方の酒井健太さんとの出会いについてお聞きします。

ひらこゆうき/1978年生まれ。2006年に酒井健太さんと「アルコ&ピース」を結成。9歳男の子&7歳女の子のパパ。レギュラー番組はTBSラジオ「アルコ&ピース D.C.GARAGE」(毎週火曜日24:00〜放送)など。YouTubeチャンネル「アルピーチャンネル」を毎週火・金に更新中。

遊びの効いた
ちょっと“アメリカっぽい”感じの家庭でしたね

アルコ&ピース・平子祐希さんロングインタビュー。「不登校にはならなかった。親が心配するかなあと思って」【前編】の画像1

「家事はデート」「夫婦ゲンカはただのノロケ」「奥さんのだらしない姿を見られるのは宇宙で自分だけ」――。メディアでたびたび妻・真由美さんとの夫婦生活を語り、芸人界随一の愛妻家としても知られるアルコ&ピース・平子祐希さんは、福島県いわき市の港町・小名浜で生まれ育った。

――ご両親はどんな方でしたか?

母親が小学校の教員で、父親は市役所勤めしていたんですけど、途中から、父親が会社を興しました。なんか、遊びの効いた、ちょっと“アメリカっぽい”感じの家庭でしたね。子どもが大好きで、ボディタッチやハグ、頭なでる、ほっぺにキスで愛情表現をするような。夜、寝てたら部屋入ってきて、布団直して出て行くような。高校のときもそれをやられた覚えがあります(笑)。

――それは子ども心にどう感じていたんですか?

いや、俺の中ではそれがずっとスタンダードでしたから。中・高校くらいになって、他とは違うんだなあっていう感じはありましたね。両親の夫婦仲も良かった。ケンカもしてましたけど、ベースはすごい仲良しで、ひっついてる姿も幼心に覚えてますね。

――ごきょうだいは?

4人きょうだいの一番上です。下に妹と弟が二人。一番下の弟は15歳離れてます。

――じゃあ、世話とかもしていたんですか?

うん。もうかわいくて猫っかわいがりしてましたねえ。自分の子どもでもギリおかしくないぐらいの年だったから。もう一目散に家帰って。誰が抱っこするかでケンカするぐらい。それが今の自分にどういう影響を及ぼしたのかわかんないですけど。おむつ替えたり、寝かしつけたり、あやしたり、プチ育児みたいなのを、一回そこで経験できたのが、良かったかもしれないですね、今の自分の子どもの前に。

――きょうだいゲンカの思い出はありますか?

真ん中の妹が、鬼ごっこでもかくれんぼでも、鬼になるとやめるタイプの女で(笑)。それが原因のケンカが一番多かったんじゃないのかなあ。だからなんか俺の中の女性像がちょっとそこに引っ張られてる感じがします(笑)。

――親から怒られたのは?

中学で禁止されているから、ゲームセンターに入り浸るのはもちろんダメなんですけど、教員だった母親に見つかったことがあるんです。他校の先生でも巡回してその年齢の子がいたら声かけてたから。
俺と友達で「『ストⅡ』」(「ストリートファイターⅡ」)をやってたら、横に誰かずっと座って見てる気配がして、パッと見たら母親で。ブランカというキャラを使っていたんですけど、ブランカの動きがスローモーションに見えて(笑)。その光景はめっちゃ覚えてるんですよね。
でも、そういうときでも、叱るっていうよりは、「まあそういう行きたい気持ちわかるけどね」って。そういうタイプの親でした。元々どっちも公務員で堅そうなイメージはあるんですけど、そのへんは全然なかった。なんかすごい悪さしても、逆に親から謝られたりしました。親の財布からお金くすねて使っても、「さすがに鬼みたいに叱られるだろうなあ」と思ってたら、逆に「そういう価値観を植えつけてしまったこっちが悪いから」って謝られて。そっちの方がしんどいなっていうのは、強烈に覚えてますね。

アルコ&ピース・平子祐希さんロングインタビュー。「不登校にはならなかった。親が心配するかなあと思って」【前編】の画像2

――小学校の頃は、学校ではどういう子どもでした?

小1のときに学校でウンチ漏らしちゃって。大体、小学校なんてそれで6年間決定じゃないですか。ずっと、「パンツ」ってあだ名だったんです。
当時まだボットン便所で、ウンコついたパンツを捨てればよかったんですけど。なんか俺、なんでもかんでもものを擬人化して見ちゃうクセがあって、可哀想になっちゃったんです。「このパンツ、ずっと使ってきたのに捨てたら悲しむかな」つって。ちょっとだけ水でシャシャッて洗って、ノーパン状態でズボンに挟んでた。
そしたらそれを知らない間に教室で落としちゃった。そんで「パンツ」ってあだ名がついた。もうそのときには俺にもわかりました。自分のこれからの立ち位置が(笑)。積極性のない、時にバカにされたりいじめられたりする側でしたねぇ。

――その立ち位置は中学に進学しても変わらなかったんですか?

まったく一緒ですね。いじめ甲斐のあるやつだったと思います。体大きいのになんも反発してこない。運動はめっちゃできたんだけどいじめられてる、ちょっと新しいパターンのいじめられっ子でした。

――不登校にはならなかったんですか?

なかったですねえ。なんか親が心配するかなあと思って。精神的にしんどいけど、体はそんな痛くないし、まあいいかぁって。親がそれを心配するダメージの方が、受けるダメージよりも大きいだろうなあって、どっかで思ってましたね。
でも、やっぱり学校は嫌でしたね。勉強も一切してない。偏差値も34とか取っちゃって、始まって以来だとか言われて。行く学校もほぼないような状態でした。

――反抗期は?

親には「めちゃくちゃ暗い反抗期だった」と言われました。あんまり覚えてないんですけど、親に反抗したいけど言えないから、自分のキャップを切り刻んでたっていう(笑)。
そういえば和室で切り刻んだことあったなあってなんとなく記憶の片隅にあるんですけど、なんだったんだろうなって。だからちょっと危ない系の、内にこもった感じの反抗期?……だったと思いますね。
あと父親とは多少取っ組み合いみたいなのもありました。でも、体がおっきくなっちゃって、中3のときに初めてねじ伏せてしまったんです。そのときすごいショックで。「父親が俺に負けた」っていうのが、今まで父親に抱いてた「何やっても勝てない」っていう絶大なるイメージがガラッと崩れたのが自分の中ですごいショックだった。それも和室だったんですけど。和室で組み伏せた映像をいまだにちょっと覚えてますね。

――工業高校(福島県立勿来工業高等学校)に入った動機は?

まず行ける場所がなくて、でも母親が一念発起させようと近くにラグビー部が強い学校があったから「ラグビーやってみれば?」って言ったんです。体も大きくて、足も速いし、運動もできたから、ひとつ目標を持たせようと思ったみたいで。

――実際、ラグビー部はどうでしたか?

地獄でしたね。強い学校だったから、何度か「花園」(全国大会)に行ったりしてましたけど、もう地獄。休みも年に2回くらいしかない。
自分は部の中では小さい方だったんで、監督から「痩せ馬」って呼ばれて、ずっと「でかくなれ」「でかくなれ」って言われ続けてました。結果、3年間ででかくはなったんですけど、芸人になったら「ちょっとでかすぎる」みたいな(笑)。
だけど今考えるとやってよかったなとは思いますね。なんか1個、しんどいことを完遂するっていうのは、経験値として得ることができたので。あとは、2年ぐらいでラグビー体形になって、クラスメイトもバカにするのをやめてクラスでのいじめられっ子という立ち位置からは脱出できました。根底の性格はなんも変わんないんですけど。向こうが勝手に引いてくれた。

――恋愛はされていたんですか?

いじめられっ子でしたけど、なぜか彼女は小学3年頃からいたんですよ。その頃は「両思いだね」って一緒に帰ったりする程度ですけど。中学・高校もずっと彼女はいました。

――女性とのコミュニケーションは得意だったんですか?

全然そこは苦にならなかったですね。だから俺、モテると思ったことないですけども、“こういう人フェチ”ってたまにいるんですよ。

――こういう人フェチ?

なんか体でっかくて何考えてるかあんまりよくわかんなくて、ハッキリしないけど……っていうタイプが好きな人(笑)。そういう人がなんか一定数いるのかなあって。一気にわーっとなだれ込むようにモテた経験はないんですけど、ぽつらぽつら、そういう人が寄ってきたりはするので。こっちは受け身ですね。

一番イタい二人が
コンビを組んだんです(笑)

両親の深い愛情を受けて育った平子はやがてお笑い芸人を志す。その最初のきっかけは意外な国民的映画だった。

――お笑いを好きになったのは?

普通にドリフ(ターズ)は見ていた世代で、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」とかは家族で集まってずっと見ていました。一番大きなきっかけは両親が好きだった映画『男はつらいよ』を一緒に見たこと。
だから、“ザ・コント”というよりは、金だらいも落ちてこない、誰もボケてもツッコんでもいない中で、あの生活感のある人間模様だけでゲラゲラ大人が笑ってんのを見て、「こういうお笑いのやり方、手法があるんだな」って小学校高学年ぐらいで気づいたんです。で、寅さんを演じている渥美清が芸人なんだっていうのをどこかで知って、芸人というのを強く意識しました。

――具体的に「芸人になろう」と思ったのはいつ頃からですか?

ラグビーで大学に行く気はもうなくて、周りの進路がどんどん決まっていく中で、俺だけ、進路希望すら決まらないという状況だったんです。それで教室に置いてあった大学・専門学校が載ってる冊子をパラパラめくってたら、前に座ってた友達が「お前、ここに行けば?」って指したのが日本映画学校(ウッチャンナンチャンやバカリズムなどお笑い芸人も多数輩出している専門学校。現・日本映画大学)。
授業中に理科の先生とか国語の先生を、役者になりきってミニコントで煙に巻いたりしてたんですよ。友達はそれを見ていたので、「俳優科」を勧めてきた。それで当時からどこかで持っていた寅さんへの憧れがふつふつとまた湧いてきたんです。「芸人志望も役者志望もいる」っていうのがすごく僕の中で大きくて。渥美清さんが、芸人なのか役者なのかっていう、結構ボーダーラインが曖昧なところで活動してたっていうのと重なったんです。

――実際に入学していかがでしたか?

ボイストレーニングとかタップダンスとかの授業が、やっぱしんどくて。タップシューズ買うお金も親に送ってもらったのに使い込んじゃった。タップダンスがなんかにつながるってどうしても思えなかったんです。あとモダンダンスっていう授業も結構な時間割かれてて、自分が樹木になって太陽に向かって大きく力強く生えていくっていう授業を、みんなちゃんと真剣にやってて……。
「これを俯瞰で見ることが芸人なんだろうな」っていうのはなんとなく考えてて、あんまり内々には入らないように距離を取ってた。なので、学校で学べることっていうのは僕の中では限界があるなあと思ってました。

――漫才の授業は?

講師で、こないだ亡くなっちゃった桂子師匠(内海桂子)が来てくださっていて。クラスメイトと半分コントで半分漫才みたいなネタをやってました。今考えるとよくわかんない、なんか尖ってるだけの「漫才でもコントでもないことやろう」としたんでしょうけど。座ってやる漫才みたいなスタイルで。死ぬほど面白くなかったです(笑)。

――桂子師匠には何か言われましたか?

ああ、でも、その中で箱馬(舞台上で使用する定型の木箱)を自然に演技の中で転換したことだけはめちゃくちゃ褒められました(笑)。

――卒業してすぐに芸人になったんですか?

いや、在学中に同級生から誘われて、フリーの状態で活動してました。そのコンビは空中分解のような形で終わって、しばらくバイトだけの生活をしていたんですけど、また別の同級生から「ちょっとネタ書いてくんないか」って誘われて組み直しました。

アルコ&ピース・平子祐希さんロングインタビュー。「不登校にはならなかった。親が心配するかなあと思って」【前編】の画像3

――SMA(ソニー・ミュージックアーティスツ)に入ったのは?

いろんな事務所のネタ見せやライブには行ったんですけど、所属になるためにはどこも4ステップくらい必要で、全然とってもらえない。その頃、履歴書持っていくととってもらえる事務所ができた(2004年にSMA内でお笑い芸人のプロジェクト「SMA NEET Project」が立ち上げられた)と聞いたんです。
元・フォークダンスDE成子坂の村田渚さんとかもいたので、じゃあ、そこ行こうよって。フリーで2年ぐらいやって嫌になって所属した感じですね。

――同期というと誰になるんですか?

俺らはめちゃくちゃ複雑なんで同期意識みたいのはあまりないんです。吉本以外では、もう年齢一緒だったら友達みたいな感覚。
俺、芸歴とかって大っ嫌いなんですよ。入った歴とかもう意味がわかんない。芸歴が長いからって、よく年上にジュース買いに行かせられるなあって。その感覚持ってるのによく芸人できんな、と。

――のちに相方となる酒井(健太)さんの第一印象は悪かったようですけど。

なんか坊主でヒゲで無口。で、コントもよくわかんないけど雰囲気だけは出す。それで、周りの芸人は騙されてて「天才だ!」って(笑)。
でもウマは合ったんですよ。二人ともめっちゃくちゃ尖ってたんで。まだ組む前に、一緒にエンディング出ずに楽屋で二人で「出てらんねえよな」って。今考えると一番イタい二人が組んだんです(笑)。

――今の太田プロに移籍したのはどういう経緯で。

当時、ソニーでも先輩という先輩がまだ全然いなくて。今でこそ、(ハリウッド)ザコシショウやバイきんぐが出てきたりしてますけど、コウメ太夫が唯一テレビ出てるっていうような状態。
先輩とか、きちんとしたテレビに出てるタレントさんの中で揉まれたりしながらやってみたいっていうのもあったんです。俺、2007年に結婚したので、バイトしながらではしんどいし、もうこのままだと辞めなきゃいけない。一回、老舗の大きい事務所でやってみて、それでもうダメだったら、なんか諦めがつくかなと。
その区切りの意味として、「移籍したいな」って思ったのがきっかけですね。いろんな事務所の話を聞いたんですけど、太田プロに所属してる芸人だけが自分の事務所の文句言わなかった(笑)。

(後編へ続く……)

INFORMATION

『今日も嫁を口説こうか』
平子祐希/著 扶桑社 1430円
結婚14年目となる現在も、交際2か月目の熱量をキープしているという平子さん。そんな芸人一の愛妻家が綴る、夫婦愛をテーマにしたエッセイ。『家事なんてデートみたいなもんだ』など、金言が満載。

インタビュー/てれびのスキマ 撮影/馬場わかな(kodomoe2021年4月号掲載)

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